伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

大相撲 クライシス

2017年09月16日 | エッセー

 100年に1度の危機だという。横綱、大関7人中5人休場。実に7割。幕内力士では42人中7人が欠場。2割弱に当たる。ほとんどが怪我による。かつてサポーターをしている力士は稀だったが、今はしていないのが珍しい。安全管理からいうと、負傷者だらけで現場を切り盛りしているに等しく落第だ。報道によると定価1万6千円のマス席が8千円の半値で売り捌かれているという。経営においてもピンチだ。
 舞の海氏は重量化が原因とし、一方シコ不足を指摘する見方もある。雑把に掴めば、重量化は飽食の時代を表徴し、スポーツ界でのウエイトトレーニングの隆盛はシコ不足を誘発したといえる。前者がフィジカル、後者がソフト面の起因ともいえよう。さらに過密な巡業で疲れが溜まっているとする意見もある。こちらはエンタテインメントとしての宿命か。だが同時に交流稽古の場でもあり、捨て難いチャンスでもある。按配の問題だ。やはり、主因は前2者であろう。
 重量化の弊害は照ノ富士や逸ノ城に典型的だが、押し並べて膝にウィークポイントを抱える力士は数多い。重量化に骨格がすぐさま対応できるわけではない。事がフィジカルだけに、特に体重と膝の拮抗関係は科学的分析を重ねる必要がある。でき得れば指数化して危険ラインを明示できるよう、協会を挙げて取り組むべきではないか。
 シコは四股と書き、豊作を願い地を踏み固めて地力を高める呪術であった。後みにくいではなく強いの謂で「醜(しこ)」を使い、強者を踏み破る示威行為を「シコを踏む」と呼んだ。醜名はそこから来た。ともあれ、土だ。ところが事情は絡み合い、巡業先は土俵以外土がない。膝への負担が心配で、シコが減る。醜が敵手から足許に変わってしまった。これは為せぬ改善ではなかろう。
 初の国立大学出身力士で、現在相撲研究家として知られる松田哲博氏はシコについてこう語る。
 〈今は高々と足を上げる力士がもてはやされますが、明治大正の頃は膝を曲げて足先の力を抜いていましたから、だらんと膝から下がるような形になります。昔の土俵入りでは、絶対足裏を見せるなといわれたものですが、現在では足裏を見せ、いかに足を高く上げるかを競うようなところがある。しこの踏み方もだいぶ変わってきていると思います。〉
 内田 樹氏との対談『日本の身体』(新潮社)での見解だ。意外だが、さすがに深い。「もてはやされ」始めたのは貴乃花あたりからか。宇良が刻下最右翼だ。「足裏を見せないというのは、他の武道の型でもよくあります」と内田氏は受け、
 〈狭いスペースでもできますし、自分がどこの筋肉を使っているかよく感じながら踏むと、本当に面白い。残念ながら若い人にはその面白さがなかなか伝わらないのですが……。〉(同上)
 と、松田氏は続ける。同著の別の対談で、内田氏はより踏み込んでいる。
 〈温帯モンスーン地域において、しばしば地面は深い泥濘となって脚部に絡みついた。その上を進むためには、足裏をぴたりと地面につけて、すり出すように足を前に進め、荷重をできるだけ足裏全体に「散らす」という歩行法が要求される。列島の自然環境は住民たちに泥濘を歩む「すり足」を要求した。そこから腰をやや低めに据え、軽く前傾して胸を落とし、股関節の可動域を広めに確保できる姿勢が導き出された。すり足はこう言ってよければ、「足裏の感度を最大化して、地面とのゆるやかな、親しみ深い交流を享受する」歩行法である。〉(抄録、以下同様)
 してみれば、シコのありようは太古に起源をもつ本邦独自の身体運用といえる。松田氏がシコによる健康法を唱えているのも深遠な洞察に依るのだ。
 ウエイトトレーニングはどうか。松田氏は
 〈私が入門した昭和五〇年代後半頃は、ウェイトトレーニングは非常に嫌われていましたが、今では特に取り沙汰されることはありません。若い頃はかなり必死にやりましたが、今は完全に否定派です。ある段階から先へ進むためには、かえって邪魔になることが多いように思います。しことてっぽうの稽古の質、量の低下が、怪我を増やす原因の一つになっているのではないかと考えています。〉
 と、反対を宣する。「かえって邪魔になる」とは興味深い。それは、続く内田氏の
 〈働くときは人間とにかく楽をしようと思いますから、さまざまな筋肉に均等に負荷をかけるように身体を動かします。だから労働でついた筋肉は変にもりもりにはならない。ウェイトトレーニングはちょうどその真逆ですからね。 〉
 に呼応し、分解、分析、細分化を旨とする近現代の指向性へのアンチテーゼにも聞こえる。耳を欹てる触りだ。
 少しずれるが、松田氏が双葉山の肩胛骨に触れている。この遣り取りがおもしろい。
 〈松田:現代では引きつけが利くからというので「上手は浅く」が相撲の鉄則ですが、双葉山さんは割と深いんです。がばっとまわしを取って、引きつけずに、肩胛骨で相手の身体を押さえてしまう。そうするともう相手は動けませんから、ころん、と。
内田:やっぱり肩胛骨の使い方が違うんでしょうね。みんな「腕」は肩の付け根から始まると思っているけど、双葉山関などは肩胛骨から先を腕として使っている。肩胛骨には体幹部の筋肉がつながっていますから、柔らかく見えても、肩から先の腕の力だけとは比べものにならない大きな力が伝えられると思います。
松田:一世を風靡した双葉山さんも、脇は結構甘いんです。でも相手を肩胛骨で押さえているから、まったく動けなくなる。腕の筋肉で引きつけるのとは違います。〉
 さらに、
 〈双葉山さんの動きはまさに甘みがあって柔らかいので、素人目にはあっけなさすぎて面白くない。〉
 とも述べ、大相撲の深奥を覗かせる。
 伝統の国技といえども、大相撲も時代の子だ。フィジカル、ソフト、エンタテインメントの3面から変化の風を受ける。そのような淘汰圧の先鋭的帰結として今回の危機が惹起しているとしたら、ここはしばし踏み留まらねばならぬ。洒落ではなく原点の大地にしっかとシコを踏み、「足裏の感度を最大化して」すり足のごとく歩みを運ばねばならぬ。一過性のアクシデントとして去なしたなら、禍根は肥大し逆襲する。 □