伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

錦秋の訪い

2013年10月02日 | エッセー

 

 錦秋の到来である。

  秋きぬと目にはさやかに見えねども風のおとにぞおどろかれぬる

 古今和歌集にある名歌である。なりかけ、移り際に雅趣を捉える感性こそ本邦の売りだ。ひょっとしたら、「辺境国家」に住まう人びとの心性であろうか。
  内田 樹氏は「時間の先後、遅速という二項図式そのものを揚棄する時間のとらえ方」が「機」だとし、辺境人が中華に抗する「後即先、受動即能動」のスキームだったという(新潮新書『日本辺境論』)。つまりは、後・受・遅を宿命的に背負う辺境人が採用した起死回生のソリューションが「機」であった。二項を「揚棄」しようするメンタリティは、否応なくあわいに向かうはずだ。際(キワ)にフォーカスされる。だから、「おどろく」とはサプライズではあるまい。知的な覚醒、もしくは「時間の先後を揚棄」した「機」の表出ではないか。
 10月はじめとはそのような際(キワ)かもしれない。

 “オクト”とは、ラテン語で「8」を表す。オクトパス、然りだ。オクトーバーはどうか。
 古代ローマでは春3月に国王によって新年が宣せられた。農作業の開始号令であったろう。10ヶ月だけ勘定して、12月で終わり。あとは農閑期か。そして、また春に。だから、ローマ暦には十月(トツキ)分の呼称しかなかった。まことに大らかなものだ。のちカエサルがユリウス暦をつくる時、年(ネン)の初めを1月とし1年は12ヶ月とした。となると、ふた月分の名前が不足する。なぜそこなのか、誕生月だったのだろう、ローマ暦の5番目と6番目(ユリウス暦では年初が2ヶ月繰り上がっているので7・8月)がユリウスとアウグストゥスの名に改称された。それで数字でナンバリングされていた7・8月が、ふた月分押し下げられた。“セプテン”はラテン語で「7」の謂である。ややこしい話だが、『8番めの月』が「10月」になった経緯はシーザー絡みであった。歴史的巨人は名の残し方も鮮やかだ。
 
 錦秋はその通りだが、なぜ白秋なのか。素秋ともいう。「素」も白の謂がある。「しるし」に通じる白は、はっきりとした様子を表す。五行説では白は西方の色とされるから、夕映えが連想されなくもない。しかし、その色ではあるまい。四神の中で最高齢が西方を守護する白虎だ。四元を人生の四季に配する時、最後に来る。こじつければ、長寿の白がイメージされる。ともあれ、味わいは深い。

 “オクトパス”と言っておきながら、この歌を素通りするわけにはいくまい。

 Octopus's Garden
   〽I'd like to be under the sea
    In an octopus' garden in the shade
    He'd let us in, knows where we've been
    In his octopus' garden in the shade
        ・・・・
    I'd ask my friends to come and see
    An octopus' garden with me
        ・・・・
    We would be warm below the storm
    In our little hideaway beneath the waves
    Resting our head on the sea bed
    In an octopus' garden near a cave

    We would sing and dance around
    because we know we can't be found
    ・・・・
    We would be so happy you and me
    No one there to tell us what to do〽

 リンゴの作詞作曲である。洒脱で飄然とした滋味は、彼以外には出せない。甲斐甲斐しいバックのコーラスも、また泣ける。なにせオーラスのアルバムである。
「海の底、岩陰のタコさん家(チ)のお庭がお薦めだよ。ぼくと一緒に行こう。みんな、お出でよ。時化だって浪の下なら平気。誰にも見つからない。歌って、踊ってハッピーだ」
 解散含みの推移の中で、リンゴなりの進退を暗示したのかとも勘ぐれる。それにしても、オクトパスとはおもしろい。生態域の関係でゲルマン系は喰わない(今では口にするそうだが)。ユダヤ教では禁忌だ。「悪魔の使い」と呼ばれたこともある。たしかに怪異ではある。その嫌われ者が安住の居場所を供してくれる。この逆説に容易ならぬ可笑味がある。

 やっと訪った錦秋。たまには丁寧に愛でたいものだ。 □