伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

It

2018年10月07日 | エッセー

It’s a girl.
 It という代名詞が引っかかった。突き放した語感が冷ややかだ。
  girl か boy かは染色体によって決まる。はるか12年前の小稿『ぞろ目にはかなわない!』(06年7月)で、養老孟司先生の御高説を徴した。女はXX、男はXYである。おもしろいのは、はじめはすべてXXからスタートすることだ。受精後7~8周目でY染色体上のSRY遺伝子が働いてXYになる。養老先生は、
 〈本来は女のままで十分やっていけるところにY染色体を投じて邪魔をしている。乱暴な言い方をすると、無理をしている。だから、男のほうが「出来損ない」が多いのです。〉( 「超バカの壁」)
 と言い放つ。だから、XYはXXの「ぞろ目にはかなわない」のである。
 もう一つ、おもしろい話がある。母性遺伝であるミトコンドリアDNAの分析によると、ホモサピエンスのゲノムにネアンデルタール人の遺伝子が数%組み込まれていることだ。60万年前にホモ属から分岐したネアンデルタール人はヨーロッパを中心に西アジアから中央アジアにまで分布していた。30万年前に後発したサピエンスよりも体格は大きく、脳も大きかった。なにより寒さに強かった。この耐寒性をサピエンスが受け継いだことが氷河期を生き延びる上で奏効した。
 結局はユヴァル・ノア・ハラリがいうところの「認知革命」によって集団力を獲得したサピエンスにネアンデルタール人は絶滅させられてしまう。「認知革命」については、昨年1月の拙稿『サピエンス全史』ほか幾度も触れてきた。個体レベルでは優れていても、衆寡敵せず、それも組織立った衆には脆くも敗れ去った。3万数年前に起こったこの攻防戦により、今やホモ属はサピエンスしかいない。
 いいとこ取りされて捨てられて、ネアンデルタール人はまことに憐れだが、いいとこ取りをなし得たのはサピエンス女の果敢なる挑戦であったといえる。結果、現代人類はサピエンスの女とネアンデルタール人の男のハイブリッドなのである。逆のパターン、サピエンスの男とネアンデルタール人の女とのハイブリッドは絶滅している。万物の霊長たる高みはサピエンス女によってもたらされたといえよう。だからやっぱり、ここでも「ぞろ目にはかなわない」のだ。girl とは紛れもないそのぞろ目である。
 さて、It だ。むしろ、この場合 This ではないか。あるいは、The baby is a girl. と、定冠詞を使う方が収まりがいい。なんにしても、It では冷ややかであろう。それになにもわざわざ英語でなくてもと、あれこれ考えるうち得心に至った。きっとこれは照れだ。ずいぶん待たせた親へ、娘からの吉報はちょっと曲球になったようだ。 □