伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

ブログの衝撃と訓話の不愉快

2016年03月22日 | エッセー

 「保育園落ちた日本死ね!!!」は遂に鈍重な政府に腰を入れさせた。総数約1600万、内アクティブ300万といわれるブログの中で際立った影響力を劇的に誇示した。
 怒髪天を衝く筆鋒を抜き書きしてみよう。
¶ 一億総活躍社会じゃねーのかよ。
どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか。
子供産んだはいいけど希望通りに保育園に預けるのほぼ無理だからwって言ってて子供産むやつなんかいねーよ。
不倫してもいいし賄賂受け取るのもどうでもいいから保育園増やせよ。
オリンピックで何百億円無駄に使ってんだよ。
どうすんだよ会社やめなくちゃならねーだろ。
保育園も増やせないし児童手当も数千円しか払えないけど少子化なんとかしたいんだよねーってそんなムシのいい話あるかよボケ。
金があれば子供産むってやつがゴマンといるんだから取り敢えず金出すか子供にかかる費用全てを無償にしろよ。
不倫したり賄賂受け取ったりウチワ作ってるやつ見繕って国会議員を半分位クビにすりゃ財源作れるだろ。
まじいい加減にしろ日本。 ¶
 なんとも凄まじい。「無理だからwって言ってて」の“w”は誤字ではなく、“(笑)”の省略形らしい。自嘲を込めたのか。片や、宮崎くんも松島おばさんもバッサリ。この投稿は2月、どっこい今月はこのおばさん、ウチワに飽き足らず、スマホと新書と欠伸の三連発をカマしている。返す刀でオリンピックを糾弾し、議員定数も槍玉に挙げる。社会的政治的イシューを網羅的に俎上に上げる手腕は見事なものだ。なによりこのヤンママを地で行った物言いが利いている。「保育園を落ちました。日本はどうかしてます」と来て「ではありませんか」「大いに疑問です」などと小洒落ていたら、誰も目を止めなかったであろう。まことにヴォイスのなせる技だ。
 犬の遠吠えにしかすぎない本稿に比して、空前の膂力を満天下に示したといえる。まさに『ブログの鑑』だ。
 このブログを取り上げた予算委員会での質疑をたまたま聞いていた。総理は匿名である以上確かめようがない、と答弁した。このひと言に、この人物のなんたるかが凝っている。この場合、匿名であるか否かはまったく問題にならない。火事の通報を想起すれば足りる。通報者が特定できなければ消防は動かないのか。「確かめようがない」とは問題の存否もしくは程度を差しているのであろう。まさか存否ではあるまい。すでに政策に取り込まれてる以上、存在を知らないはずはない。ならば、程度か。そうともいえる。しかし真意は、「日本死ね!」への深層心理からの拒絶が問題の提起自体をネグレクトさせようとしたのではないか。『美しい日本』に「死ね!」と罵声を浴びせられた。その刹那、思考停止してしまった。だから施策を打っているにもかかわらず、辻褄の合わない「確かめようがない」という言葉が口を衝いて出た。まさしく語るに落ちたわけだ。
 反知性主義とは実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度であると、佐藤 優氏は言う。総理の発言はこの定義に過不足なく該当する。してみれば、このブログは時の宰相の反知性主義を白日の下に曝いた智剣だったといえよう。
 一方、先月下旬大阪では「女性は2人以上産むことが大切」と全校集会で生徒たちに語った校長の発言が物議を醸した。要旨は以下の通り。
¶ 今から日本の将来にとって、とても大事な話をします。特に女子の人は、まず顔を上げて良く聴いてください。女性にとって最も大切なことは、こどもを2人以上生むことです。これは仕事でキャリアを積むこと以上に価値があります。
 なぜなら、こどもが生まれなくなると、日本の国がなくなってしまうからです。しかも、女性しか、こどもを産むことができません。男性には不可能なことです。
 「女性が、こどもを2人以上産み、育て上げると、無料で国立大学の望む学部を能力に応じて入学し、卒業できる権利を与えたら良い」と言った人がいますが、私も賛成です。子育てのあと、大学で学び医師や弁護士、学校の先生、看護師などの専門職に就けば良いのです。子育ては、それほど価値のあることなのです。
 もし、体の具合で、こどもに恵まれない人、結婚しない人も、親に恵まれないこどもを里親になって育てることはできます。
 次に男子の人も特に良く聴いてください。子育ては、必ず夫婦で助け合いながらするものです。女性だけの仕事ではありません。
 人として育ててもらった以上、何らかの形で子育てをすることが、親に対する恩返しです。
 子育てをしたら、それで終わりではありません。その後、勉強をいつでも再開できるよう、中学生の間にしっかり勉強しておくことです。少子化を防ぐことは、日本の未来を左右します。
 やっぱり結論は、「今しっかり勉強しなさい」ということになります。 ¶
 賛否があるらしい。ただコンテンツ以上に聴く者を動かすのはその語り口だ。話者との関係、知的レベル、理解力、親和の情、場所、シチュエーション、社会的環境、地域的事情、成熟度、個人的歴程などさまざまなファクターが織りなす中で言葉を紡がねばならない。この話を聞いた女子生徒の中で何人が胸にすとんと落ち、「日本の国がなくなってしま」わないために「2人以上産み、育て上げ」ようと凜々しき決意に立ち上がったであろうか。この校長は確信に充ち満ち、前言を変える気はないそうだ。
 さて上げて落とすようだが、「保育園落ちた」ブログとこの校長訓話の双方に致命的に欠けているものがあるような気がしてならない。それは何だろう、としばらく考え倦ねていた。やがて内田 樹氏の近著を読むうち、霞が晴れた。以下、抄録。
◇国民もまた政府と同じように、出産育児を「経費と収益」で考量するようになる。「子どもを産むのは得か損か?」という問いのかたちで出生問題を考える傾向が支配的になる。今の日本では出産も育児も、親の社会的活動に大きな障りとなります。育児負担は経済的にも重いし、就業形態も制約されるし、自由時間もなくなる。
 出産育児はさまざまな発見をもたらし、親の人間的成熟に資する「愉快な経験」であるということをアナウンスする人はきわめて少数派です。とりあえず政府は言わない。
 逆説的ですが、少子化政策と児童虐待は、思想的には同一のものです。そこには出産育児を通じて「人間は成長する」という当たり前のことが言い落とされている。損得というのは「財布から出した金」と「手に入れた商品」を比べる消費者の言いぐさです。でも、消費者は成長しない。「スーパーで買い物をしている間に価値観が変わる消費者」というのはありえない。子どもを産み育てる過程で「子どもを産むのは得か損か」という算盤そのものが失効するということは、算盤勘定をしている人間にはどうしても理解できない。資本主義先進国では、どこも損得を基準に思量する人たちが多数を占めるようになった。だから、人口減になる。当然のことです。
 日本はこのまま人口が減り続けます。これは断言できます。人口減が止まるとしたら、それは「子どもを生み育てる喜びと達成感は、損得勘定できるものではない」というまっとうな知見が常識に再登録された場合だけです。◇(文春文庫「街場の文体論」より)
 そうなのだ。「親の人間的成熟に資する『愉快な経験』」が語られていない。欠損していたのはこれだ。前段のブログは未だしとしても、後段の訓話にはあって然るべきではないか。なぜか双方に漂う身も蓋もない欠乏感の正体はこれだ。
 かつて養老孟司氏は少子化よりも少“親”化が問題だと指摘した。親の親世代が自らの『愉快な経験』をもっともっと語り継がねばならない。「常識に再登録」されるまで。 □