勤めていたころの話。イベントがあった際、社屋の外壁に字幕を取り付けることになった。上役が心意気を見せようと自らその作業を買って出た。下働きのおじさんに梯子を抑えておくように命じて登り始めた。三、四段進んだところで、上役が顔を真っ赤にして急に呼ばわり始めた。
「離せ、離せ!」
なんと、おじさんは上役の片足を両手で必死に抱きすくめている。声を荒げれば、余計に力を入れる。といって上役が手を離して制止しようにも、離せば引き摺られて転落してしまう。危ない。急いで駆けつけおじさんの手を引き離して、やっと事なきを得た。実はこのおじさん、耳元の大声でやっと通じるほどの難聴だったのだ。
上司の認識不足も責められるが、状況を弁えずまさかの足にしがみついたおじさんもおじさんだ。後で訊けば、変なことをさせるなと訝りつつそうしたと言った。
作ったように滑稽な話だが、実話だ。コミカルなエピソードには、とかくアレゴリーを捩じ込みたくなる。上司を刻下の宰相に、おじさんを日銀総裁に、字幕をなんとかミクスに、とでも。
マイナス金利は設備・住宅投資を高め個人消費も上向くと踏んだが、すべては裏目に出た。内閣府の調査では、消費関連の景気判断は前月比でマイナス2.4㌽、住宅関連でも1.8㌽の悪化。株価は下落し、消費マインドは陽気とは逆に冷えたままだ。どころか、家計は不安を抱き防衛意識が高まっている。社会主義国紛いの政府による賃上げ要請にもかかわらず、春闘は軒並みダウン。全体のベアは、前年比0.5%未満にとどまる公算が強い。なにせ、あのトヨタの社長が「潮目が変わった」と言うくらいだ。“上役”さんの大音声(オンジョウ)に応じた“おじさん”の意固地な奮闘が、あに図らんや“上役”さんを窮地に追い込んでいる。これでは、なんとかミクスの大字幕もはっつけようがない。そんな図ではないか。
潮目といえば宰相も総裁もグローバル経済のそれはもとより、経済史的潮目がまるでお解りになっていない。いまだに成長神話に憑依されたままだ。東芝の不正会計事件はその神話が生んだ悲しくも哀れな末路だというのに。
経済学者の水野和夫氏は東芝とVW2つの不正事件について「電気機械産業と自動車産業で起きたという点で近代の終わりを象徴するような事件だ」と述べ、「東芝は『日本株式会社』の一つであり、VWは『ドイツ株式会社』ですから、株式会社の存在がいま問われているのです」(詩想社新書「資本主義の終焉、その先の世界」から)と深層を抉っている。
ならば両社のトップは文字通りの“上役”で、“おじさん”は実務者や技術者ということになろうか。この場合、「離せ!」は「稼げ!」だ。挙句、梯子を外された。
本邦一国が丸ごと『日本株式会社』にしか見えないヤンキー宰相さんも他人事(ヒトゴト)ではあるまい。もうここまで来れば、なんとかミクスの“はしご”はできませんぞ。 □