伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

志麻さんに“あっぱれ”

2021年08月23日 | エッセー

 「伝説の家政婦」タサン志麻。フランスで修業し、シェフから転身して今フリーランスの家政婦として八面六臂の活躍をしている。依頼先の家庭に出向き、そこにある食材で家族構成に合わせた料理を作る。3時間で1週間分の作り置きを仕上げる。すべて逸品。家政婦というよりは料理人だ。いや、料理家ともいえる。トマトぶっちゅのルミさんを遙かに上回る。TVで取り上げられ、ここ3、4年で瞬く間に「伝説」となった。今年の第13回ベストマザー賞を受賞。同賞は一般社団法人「日本マザーズ協会」が贈るもので、「ママたちの憧れや目標となるベストマザー」を子を持つ母親の投票によって選ぶ。
 ケータリングではない。普通はメニューを決めて、食材を用意し、レシピに沿って調理する。これが志麻さんの場合は逆だ。依頼宅の有り物の食材で、レシピを考え、調理し、料理が完成する。【メニュー → 食材】ではなく【食材 → メニュー】である。プロセスが逆さまなのだ。ここが違う。かつ、それをクッキングの歴とした一形態として確立した。“あっぱれ”ではないか。いわば、ブリコラージュの妙である。寄せ集めの材料で自ら作ることをブリコラージュという。これが超早業で手際よく、複数の調理が同時に進行していく。料理には無縁の当方には、まるでマジックを見ているようだ。おそらく頭の中は恐るべき高速回転をしているにちがいない。そもそも、料理人は頭がよくなければ務まらない。経験はもとより潤沢な知識、豊かな発想、瞬時の判断と不断の挑戦、それに遊び心。おまけに供する先方への嗜好や好悪の情報。凡愚に為せる業(ワザ)ではない。
 家政婦進出の理由は日本にあるフランス料理とフランス本国の家庭料理との離隔だったという。フランス現地で食卓に並ぶ料理の庶民性と日本のフレンチレストランで供されるフランス料理の貴族性。両者の葛藤の中で志麻さんが賭けたのは前者であった。その選択が彼女をレジェンドたらしめた。卓越したポテンシャルを手挟んで、厳かなシャトーから一気に巷のキッチンへ乗り込んだのだ。なんとも“あっぱれ”だ。
 ブリコラージュについて、思想家内田 樹氏はこう語る。
〈論理的に思考する、というのは簡単に言ってしまえば、今の自分の考え方を「かっこに入れ」て、機能を停止させる、ということである。論理的に思考できる人というのは、「手持ちのペーパーナイフは使えない」ということが分かったあと、すぐに頭を切り替えて、手に入るすべての道具を試してみることのできる人である。金ダワシでウロコを剥ぎ落とし、柳刃で身を削ぎ、とげ抜きで小骨を取る。
 「理屈っぽい人」は一つの包丁でぜんぶ料理をすませようとする人のことである。「論理的な人」は使えるものならドライバーだってホッチキスだって料理に使ってしまう人のことである(レヴィ・ストロースはこれを「ブリコラージュ」と称した)。〉(「こどもは判ってくれない」から)
 ここにいう料理は思考の態様を譬えている。「理屈っぽい」とは包丁が一つ。単一の思念ですべてを裁断しようとする狭窄した思考のありようだ。「論理的」とは知が開かれてあること。「これって、あれだ」と別々のものを容易に繋ぐオルタナティブな知的流儀である。志麻さんの流儀とはこれだ。志麻さん“あっぱれ”の源泉はここにある。
 どこかの政権の迷走とフリーズはブリコラージュ不能の惨めな結末だ。包丁が一つ、しかも錆びきっている。これじゃあ、大根一つ切れない。今こそブリコラージュが緊要の課題である。志麻さんの流儀を学ぶべきではないか。 □