伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

先割れスプーンで猫飯を喰いますか?

2008年07月19日 | エッセー
 遙かむかしのような気がする。本ブログの2作目、「ヘンなことば」の中で、『みたい語』を取り上げた。06年3月27日のことだ。その部分は ――
 『みたい語』…「○○したみたい」「これに決めた、みたいな」と使う。明言せずに、「みたい」でもって動作や状況をやんわりとくるんでしまう。
  ―― である。
 その他、「ワタシ的には」「キミ的には」などの『的語(テキゴ)』。『とか弁』の連発。「方言」ではなく、「ご注文の方は」など、「○○の方(ホウ)」を多用する『の方言』。『じゃないですか話法』を槍玉に挙げた。
 しかし、やはり犬の遠吠え、暖簾に腕押し、馬耳東風。世の大勢には抗い難い。いまやNHKのアナウンサーでさえ平気で使う。そこで、「問題な日本語」第1巻(大修館書店 2004年12月刊)を援用して、再度豆腐に鎹を打っておきたい。

〓〓 みたいな
【質問】
 「…、みたいな。」などの「みたいな」の用法が気になります。間違いではないのでしょうか。
【答え】
 最近、「一緒にやろうよ、みたいな話だった」とか、「お前は帰れ、みたいな態度、むかつく。」というように、会話の内容を「みたいな」で受ける言い方がみられます。
 学校文法では、「みたいだ」は、名詞や活用語の終止形に付くとされますが、この用法は、終助詞「よ」や命令形に接続するので、例外となりそうです。
 この「みたいだ」と同じように、前の語句を受けて、概略を示したり例として示したりするものに「ようだ」があります。両者は前の語句との接続に違いがあります。まず、名詞と接続する場合、「ようだ」は、「彼のような学生」とか「馬とか牛といったような家畜」のように「の」や「という(といった)」を中に入れますが、「みたいだ」は、「彼みたいな学生」とか「馬や牛みたいな家畜」のように、直接名詞につけます。
 また、「ようだ」は名詞以外のものでも、「君がするような仕事ではない」のように動詞に直接つけることができますが、これに対し「みたいだ」は、動詞に直接つけて、「君がするみたいな仕事ではない」というと不自然な言い方になってしまいます(「彼は帰るみたいだ」のような言い方は出来ますが、これは、「たぶん、~だろう」という推量を表すのであって、「いわば、~といった」とか「たとえば~」といった概略や例示の用法ではありません)。
 それでは、冒頭の例のような、引用部分を受ける場合はどうでしょうか。「ようだ」の場合、「『一緒にやろうよ』というような話だった」や「『お前は帰れ』のような態度」という形、つまり、先の名詞の場合と同じように、「という」や「の」を中に入れる形になります。引用部分は、名詞とよく似た性質があるのです。
 一方、「みたいだ」のほうはというと、名詞には「の」を添えず直接つけますので、引用句を名詞と同様に扱うと、「一緒にやろうよ、みたいな話だった」のような言い方ができあがります。このように、「一緒にやろうよ、みたいな話だった」「お前は帰れ、みたいな態度、むかつく。」などの言い方は、引用部分を名詞と同様に扱うという、それなりの文法的な手続きを踏んで作り出されたものです。しかし、現時点では、友達同士の使用ならともかく、改まった場面では好ましい表現ではありません。
 会話を直接引用するのであれば、不必要にぼかさないで、はっきり「~という」で示す方が良いでしょうし、例示の意味を含めるなら、「~というような」や「といった」、「(さも)~と言わんばかりの」といった表現を使うようにしたいものです。
【まとめ】
 「一緒にやろうよ、みたいな …」のような言い方は引用部分を名詞のように扱うことで生み出されたのですが、まだ一般的な用法とは言えません。改まった場面では、「~という」や「というような」、「~と言わんばかりの」のような言い方をするのが望ましいでしょう。〓〓

 糠に釘打つ徒労は覚悟の前だ。生まれることば、廃ることば。新しい語法、古くなる話法。もちろんことばは生き物である。さらに言葉の経済化は常に起こっている。短縮化もある。時代の風も吹く。外来の言葉は増加の一途。世代間の相違もある。糅てて加えて、日本語の言語としての深さ。ことばは文化であると同時に、歴史でもある。フランスが英米語の蚕食を嫌うのもその辺りの事情を現している。
 特に俎上に載せたいのは、多義語と『無理矢理話法』の類だ。多義語の典型は「思う」。06年11月30日付の本ブログ『おかずを思う』か?」で難じた。そして『無理矢理話法』の嚆矢となりつつあるのがこの『みたい語』ではないか。

 「思う」には辞書に収録されているだけでも以下の通り、10意ある。
①心に感ずる
②判断する。思慮する。
③目論む。願う。
④予想する。想像する。
⑤心に定める。決心する。
⑥心にかける。心配する。
⑦慕う。大切にする。
⑧思い出す。回想する。
⑩表情をする。
 派生、関連を入れればもっとあるだろう。まことに重宝、有り体にいえば模糊として掴みがたい。
 なんでもかんでも特定の一つのことばで済ましてしまう、多義語の濫用。これはいわば「先割れスプーン」ではないか。スプーンにもなれば、フォークにもなる。真偽は定かではないが、進駐軍が持ち込んだという話だ。簡便で手間いらず、これで喰えないものはない。箸の使えない幼児にはもってこい。ひところは学校の給食で大いに使われた。しかしこればかりでは箸が使えない。不器用を育てる間(アイ)の子食器だと、いまでは姿を消しつつある。

 また『みたい語』のように、少し込み入った言い方は一つにまとめてしまう『無理矢理話法。こちらは猫飯(マンマ)である。味わいなぞ思慮の外、腹の中では同じだろうとばかり乱暴この上もない。何かをつづめたつもりが、大事なものが抜けている。立ち止まると、やはり繋がっていない。前述の「問題な日本語」全3巻から二つばかり拾ってみると ―― 。
◆なります …… 「こちら、珈琲になります」  
 これはすでに定着した感がある。同書の見解によると、物自体の変化ではなく事態の推移をこのように表現しているのだそうだ。『ひょっとして期待にそえないかも知れませんが、これがお客様の注文を受けて当店が作りました珈琲でございます。どうぞご賞味ください』まことに一句万了である。
◆かたち …… 「ご負担いただくようなかたちになっております」
 丁寧に逃げを打つ場合など、これは特に接客業で最近目立つ。「当社としましては、アフターケアを徹底させるというかたちでサポートさせていただいております」など。高尚さと客観性をを少しばかり装いながら使われる。

 先割れスプーンで猫飯を喰らう言語状況はこの先も続くであろう。いずれにせよ、表現のふくらみ、多様性は薄れていく。たおやかでふくよかな日本語がシュリンクしていく。それが気にかかる。ことばの貧困は精神の卑小と踵を接する。 □


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