伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

壱万円が泣いてらー

2008年07月15日 | エッセー
 公務員は『現代の貴族』だそうだ。ただかつての貴族と違い、世襲がない。しかし継がせたい。ならばと、袖の下を使うこととあいなった。まことにわかりやすい。手口は巧妙でも、動機は単純だ。動機の判りづらい事件が相次ぐなか、呆れるほどに明快だ。
 30歳代前半の女性教員で約40万、50歳代の校長が60万円台といったところが平均月給である。それに夏休み中も給与は出る。民間企業では考えられない。尤も「自主研修」が『認められ』、単なる休みではないそうだが …… 。
 この月、大分県教委を舞台にした贈収賄事件が発覚した。
 この類の事柄は何度か取り上げた。ことし4月26日付本ブログ「『四権』?国家」では「官僚主権」の視点から光源氏にまで淵源を遡った。今回は貪吏(タンリ)にフォーカスする。
 ある国際機関が「公務員の清潔度」について180ヶ国を対象に調査した。堂々の第1位は北欧の福祉国家デンマーク。最下位は軍政が続くミャンマー。日本は意外にも17位と健闘している。1年間に賄賂を受け取った公務員が世界の平均で13%、日本は1%。これも悪くない。額面も日本ではせいぜい数百万から数千万程度だが、中国では2年間で27億円を使い込んだ強者(ツワモノ)がいた。桁がちがう。やはり中国で、146人の愛人を公費で養っていた事件もあった。こちらの方もやることがでかい。
 中国といえば、科挙だ。役人貴族への登竜門であった。カンニングが横行し、賄賂が授受され、替え玉受験が跳梁した。清の時代には流罪に処される者が続出した。ことは科挙に限らない。「袖の下」はアジアに伝来する抜きがたき社会的慣習である。したがって、特に江戸・明治期の日本官吏のクリーンさは世界史的快挙といってよい。
 司馬遼太郎は「『昭和』という国家」で、次のように語った。

 〓〓陳舜臣さんがよく「清官で三代」と言いますね。清らかな官で三代飯が食えるほど懐に入るものだと。清朝のとき、清官は迷惑がられたのですね。いろいろ便宜を図ってもらうために、少々賄賂を取ってくれたほうが、その地域の人民にはいいのです。地方長官が賄賂を取ってくれて、なんとなくうまくいく、そういう汚職が機能する社会になっていました。むしろ貪官汚吏(タンカンオリ)といいますか、そのほうがみなさん気楽でいい。それがアジアであります。
 そういうものは江戸時代の役人道にはありませんね。田沼意次がどうこういっても、それは些細なことを誇大に書いているだけです。江戸期の侍は、ちょうど足軽ぐらいまで入れて、国民がだいたい三千万のうちの一割、三百万人ほどです。非常に清らかでした。
 吉田松陰が少年のときに叔父さんの玉木文之進に死ぬほど殴られてしまうのですが、殴られた動機は、本を読んでいたときに虫がたかって、顔がかゆかったためにかいたからです。かゆいということは私情であります。吉田松陰の実家は杉家といって、石高は三十石もなかったと思います。玉木文之進は考えたのでしょう。玉木は郡奉行をつとめたことがあります。聖賢の本を読むのは「公」であり、顔をかくのは「私」である。いま公私を混同して顔をかくようでは、大きくなって汚職をしてしまうかも知れない。しかし、お母さんはそれを見て、あまりのせっかんのひどさに、「寅次郎、お死に、お死に。もう死んでしまいなさい」そのぐらいに思ったそうであります。
 つまりそういう異様なまでの清らかな官吏、清らかな政治家へのきちんとした思考というか、スタンダードがあったために江戸期もうまくいった。よくテレビや映画の時代劇を見ていますと、悪代官が出てきます。藩の代官にはいろいろな人がいましたから、これは話が別ですが、幕府領の責任者の代官というのは選び抜かれた人でした。人格も行動も選び抜かれた人が勘定所からピックアップされて、大和なら大和、五條なら五條の代官所へ行く。五條の代官所は、だいたい中ぐらいの大名程度の領地を代官以下十人ほどで治めていました。非常に効率のいい、非常に軽い政府であります。代打所は軽い行政体なのですね。汚職などまずなく、悪い人もまずいなかった。そういう江戸期に確立された役人道が、明治に引き継がれているわけです。〓〓

 江戸の「清官」を生んだ「スタンダード」とは何であろうか。ある識者はそれを、上から下まで儒教を中心にして練り上げた「倫理社会」だという。たとえば四民の最下層にある商人に求められたのは、利よりも先ずは信用であった。信用を失えば商いの継続はもちろんのこと、家が立ち行かなくなる。一家の存続こそ、四民を通じてのファースト・プライオリティーであった。さらに、武士階級の得る俸禄とは家禄であった。つまりは個人にではなく、家に対して与えられた。それは子々孫々に継承される。その生来の特権を一時(イットキ)の小金で藻屑に帰すはずはなかろう。
 だがいまや「家」は、結婚式場の看板に記されることぐらいにしか残滓を留めない。替わって「個」が声高に語られる。「倫理」はすでに失われて久しい。戦後60星霜、いまだ現代の「スタンダード」はその片鱗さえも見えない。制度や規矩準縄に事を預けてはならぬ。内なる「スタンダード」が不動となるまで、「土竜叩き」はつづく。

 さて、大分と裏表(ウラウエ)の位置に佐賀がある。江戸時代は地方の藩ほど教育に力を入れた。『教育立国』である。別けても佐賀は格別であった。というより、ファナティックであった。エリート教育である。定められた年齢に至ると試験がある。合格できないと家禄を減殺される。300諸侯のなかで、これほどに苛烈を極めた藩はない。教育ママどころの騒ぎではない。家名を掛けての猛勉強である。当然、賂(マイナイ)など寸毫も入り込む余地はない。
 維新後、大蔵卿として殖産興業を推進した大隈重信。司法卿として近代司法制度を確立した江藤新平。どちらも佐賀の常軌を逸した誅求の教育が生んだ逸材である。歴史の奇観でもある。
 片や、大分といえば中津藩。福澤諭吉である。この明治の巨人も教育で身を起こした。肖像はいま万札を飾る。
 今度の事件で渡されたという現金。まさか「樋口一葉」ではあるまい。ましてや「野口英世」のはずがない。嵩張ってしまい、大金の受け渡しに適すまい。「福澤」先生が大挙してお出ましになったはずだ。「『學問』は『スヽメ』ても、こんなことを『スヽメ』た覚えはない!」と号泣しつつ、袖の下をくぐられたに相違ない。 □


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