伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

瑣末ながら

2010年01月22日 | エッセー

 まことに瑣末な話柄だが、郵便受けの蓋についてだ。陋屋の玄関扉の中程を刳(ク)り貫いて嵌め込まれている。郵便受けとはいっても、内側に受け留める器はない。差し込み口のようなものだ。この蓋のバネが切れてはや十数年になる。バネが効かないから、大きな郵便物や新聞を口に咥えたままでいられない。床に落ちてしまう。プライバシーには好都合だが、ばんたび腰を屈めて拾わねばならない。身体が堅い寝起きなど、腰痛持ちには辛い。風が強い日はカタカタと無用な音を立てる。透き間風も入る。不都合ではある。だが、さりとて喫緊の不具合ではない。ついつい打遣(ウッチャ)って、こんにちに至った。ずぼらなはなしだ。
 松の内が過ぎて間もなく、ついに蓋そのものが外れてしまった。これではいかにも按配がわるい。要するに、扉に横長の孔が、覗き窓あるいは覗かれ窓のように開いてしまっている。事ここにいたり、ついに重い腰を上げて業者に委ねる次第となった。いまは番外品とて取り寄せになった。なんともこれが高額である。吝嗇を割り引いても、予想の三倍はした。いっそ扉ごと変えた方がよかったかと、心中独り言ちながら作業を見守った。
 郵便受けはやっと遥かな旧に復した。永年取り付いていた顔の染みがとれたようなものだ。しかし荊妻は気づかない。言挙げしても薙刀応答(アシライ)である。亭主が清水の舞台から飛び降りて、骨折はせぬもののしたたかに打撲を負ったというのに見舞いもない。治療代を出す気なぞさらさらない。犬の首輪を取り替えた程度にしか事態が飲み込めぬらしい。晴れて十年来の荷を下ろしたというのに、呑気なものだ。

 なべて男どもは瑣末に拘る。無益であろうとも、時としてことごとしい意を注ぐ。だから、有用性を超絶したコレクターが出現する。孫にも触らせぬブリキ玩具の蒐集に血道を上げる。片や女人は有益性に片寄った関心を抱く。一円の安価を求めて、交通費は計算の外に置く。種の保存という至上命題の然らしむるところか。バーゲンでの壮絶なバトルは生存競争のなんたるかを厳粛に再現してみせる。かつ中庸を旨とし、安易に両極に振れない。その辺りの事情については、染色体に絡めてかつて触れた。(06年7月4日付本ブログ「ぞろ目にはかなわない!」)この伝でいけば、愚妻は生物学的属性に忠実に生きているようだ。扉に穿たれた孔は郵便物の通過点にしか見えないらしい。閉じていようがいまいが、通ればいい。極めて簡明で、二の句が告げぬほどに断乎としている。やはり適うわけはないのか。

 例に漏れず、荊扉の郵便受けも新聞受けを兼ねる。報道によれば、米国では新聞が生死の境で喘いでいるらしい。廃刊が続出している。ピューリッツアー賞の常連であるニューヨーク・タイムズまでが危ない。収益の七割が広告に依るため、ネットの拡大と不況の影響をもろに被った。経営構造上の要因とメディアそのものの変容がある。新聞メディアの退潮で権力監視に不都合が生まれるのではないかと危惧されている。
 宅配網の完備した日本では収益の七割が販売で、広告収入は比率が低い。しかしメディア・シフトの潮流は容赦なく襲っている。第一、青年層は新聞を読まなくなった。「社会の窓」はいまや携帯のディスプレイが担う。ここにきて、各社とも生き残りを賭けた改善策を打ち始めた。産声を上げて一世紀半、メディアの主座を明け渡す時が来るのか。時代の流れは容赦ない。

 新装なった郵便受け。孔ではあるが、情報の窓でもある。そこに今朝も、「社会の窓」が入れ籠(コ)のように納まっていた。物理的な大きさからいえば確かにそうだが、中身では逆の入れ籠だ。新聞は世界を包む。 …… 家常茶飯の寸景に妙に感じ入った。 □