伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

スポーツおバカ その2

2016年04月25日 | エッセー

 今年のスポーツ界。2月は清原のおクスリ、3月は巨人の野球賭博、4月はバドミントンの闇カジノと事件が相次いだ。例によってスポーツおバカなアナリストたちが囂しく講釈を垂れているが、どれもこれも本質を外した脳天気な与太話ばかりだ。
 核心は、スポーツは人格の陶冶にいささかも資するものではない、という一事に尽きる。その一事を極めて解りやすい形で提示した教訓的事例である。巷間に流布せられた『スポーツ万歳』の鼻を明かした快事ともいえる。
 今年1月、『スポーツおバカ』と題する拙稿を呵した。「健康のためスポーツのし過ぎに注意しましょう」というタモリの名言を引いて、主に身体面から「勝利至上主義」を難じた。
「心身二元論が勝利至上主義に背中を押された時、薬物ドーピングも技術ドーピングも鎌首をもたげる。勝利至上主義は物欲、名誉欲の海に浮かぶ氷山だ。不沈を誇った巨大な神・タイタニックでさえ一溜まりもなかった。海がなければ船は浮かぬ。浮かねば動けぬ。動けば遠近(オチコチ)の氷山が待ち構える。まことに難儀な航海ではある。」
 と慨嘆し、
「スポーツを無思慮、無批判に受け入れる“スポーツおバカ”たち。タモリの箴言『健康のためスポーツのし過ぎに注意しましょう』に、さてなんと応える。」
 と括った。わずか3か月、今度は内面的ピットホールである。
 「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」と古諺にいう。ローマの詩人はそうあれかしと祈るように諭したのであったが、後生が定言命題だと誤解した。この誤解を最も悪辣に用いたのがナチスであった。挙句、「健全なる肉体」に特化した兵士は唯唯としてナチズムなる「健全なる精神」を盲目的に注入されるに至った。本邦の戦後教育にも古諺の残滓は尾を引いている。鉄拳教育や勝利至上主義、親の功名心の隠れ蓑には決まってこの古諺が多用される。
 しかし、事は逆であろう。「健全なる肉体は健全なる精神に宿る」のだ。武道とスポーツの違いはここにある。命の遣り取りから始まった武道とは違い、遊びを原初とするスポーツに精神性が端っからビルトインされているはずがないではないか。スポーツに随伴して語られる『物語』は後付けの小理屈でしかない。
 ジャーナリストで立教大学講師の森田浩之氏は、社会の伝統的価値を反映する物語として「共同体としてのスポーツ」があるという(『メディアスポーツ解体』NHKブックス)。「努力、忍耐、地道、ひたむき、リベンジ、一丸、友情、団結、決意、気迫、恩返し、成長」これらの常套語がアスリートの成功(または失敗)に仮託され、社会の伝統的価値が体現されるという物語だ。テレビメディアがスポーツ番組で放つ悪臭の元はこれか。
 となると、タモリの箴言は書き換えた方がいいかもしれない。さしずめ、「人生のためスポーツのし過ぎに注意しましょう」ではどうだろう。 □