伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

長城は連なる

2016年11月06日 | エッセー

 「小説の万里の長城やー!」
 彦摩呂なら、きっとそう言うだろう(読んでいればだが)。

   天子蒙塵  第一巻

 10月26日、浅田次郎氏のライフワークが遂に第5部を迎えた。版元の講談社サイトには次のように紹介されている。
<シリーズ累計500万部超! 大ベストセラー『蒼穹の昴』(1996年)から20年。『珍妃の井戸』(1997年)、『中原の虹』(2006年)、『マンチュリアン・リポート』(2010年)に続くシリーズ最新作『天子蒙塵(テンシモウジン)』の刊行が、いよいよ10月から始まる。>
 帯はこうだ。
──史上最も高貴な離婚劇。
  自由をめざして女は戦い、男はさまよう。
  ラストエンペラー溥儀と2人の女。
  時代に呑み込まれた男女の悲劇と壮大な歴史の転換点を描く、
  新たなる傑作誕生!── 
──家族とは何か、自由とは何か。
  清朝最後の皇帝・溥儀は、紫禁城を追われながらも、王朝再興を夢見ていた。
  イギリス亡命を望む正妃と、史上初めての中華皇帝との離婚に挑んだ側妃とともに、
  溥儀は日本の保護下におかれ、北京から天津へ。
  そして、父・張作霖の力を継いだ張学良は失意のままヨーロッパへ。
  二人の天子は塵をかぶって逃げ惑う。──
 シリーズについては番度愚考を書き留めてきた。『中原の虹』を受けての拙稿の一部を引きたい。
<【 日本は中国の文化を母として育った。だからご恩返しをしなければいけない。清国が病み衰え、人々が困苦にあえいでいる今がそのときだ。けっして列強に伍して植民地主義に走ってはならない。それは子が親を打つほどの不孝であるから。 】(「中原の虹」第四巻 七十七)
  同じ文意の件(クダリ)が他にもある。この豁然たる心根が氏のものであってみれば、浅田次郎という作家は徒者ではない。群集(グンジュウ)の筆に屹立する。
  栄枯盛衰は世の習いである。盛者必衰は時の定めである。「滅び」にどう向き合うか。この作品は滅びゆく側が舞台である。西太后を主役に定めた意味はそこにある。
  まずは、滅びの自覚なき者がいる。世の大半、大勢である。これは捨て置こう。
  次には、滅びを見切る者。これも大半を占める。踵を返し、唯々として新興に乗り換える。
  三番手は、滅びを知り、抗う者。所謂、守旧である。アンシャン・レジームへの固執が極まり、ついに命脈を共にする者もいる。
  そして四番目に、みずから幕を引き、密やかに次代に備え、舞台を委ねる者。わが身を時代に奉じ、悪人と呼ばれ、怯懦と罵られる者。しかし、時代が一番見えているのは彼らだ。
  この四通りが滅びの切所に見せる、滅びの側の態様である。作者は当然、西太后を四番目に配した。
  日本でいえば、徳川慶喜か。大政奉還の報に、坂本龍馬は嗚咽する。「よくぞ、御決意なされたものよ」と。倒す者と倒される者。居所は彼岸と此岸に違(タガ)えようとも、両者はしっかりと時代を手挟(タバサ)んでいる。相見(マミ)ゆることの一度(ヒトタビ)すらなくとも、憂国の念に些かも変わりはない。龍馬の慧眼は怯懦と罵られる者の真正の勇気を粛然と見取っていたのだ。>(07年11月「そして王者は、長城を越える。」から)
 「滅び」は、この作家が歴史小説を綴る常のテーマである。「蒙塵」とは王が敗走すること。長城のごとく主題は連なる。しかも二人の王、重畳でもある。
──家族とは何か、自由とは何か。──
 「史上初めての中華皇帝との離婚に挑んだ側妃」。迫真の吐露に挟まれる以下のダイアログには微苦笑が漏れた。フィクサーである母親が息子のプレーボーイ振りを制しきれない。
【 「いえ、副官ですわ。作戦にはけっして口を挟みませんから。そのかわり、東北軍の少帥としてのふさわしい言動を、彼に要求いたします」
「あなたの努力は、さほど実を結んでいないように思えますけれど」
「醜聞はひとつの才能だと言った人がおりましてよ」 】
 返しが考え落ちだ。石田某が浮かんで、一息抜けた。
 側妃は語る。
【 世の中には、過去を懐(ナツカ)しみながら今を生きる人や、未来に夢を托して今を耐える人がいますね。追憶も希望も生きる糧になります。でも、今の今だけに生きる人がいるとしたら、やはり不幸であるにちがいありません。その今が、どれほど楽しかろうと。 】
 「今の今だけに生きる」ほかない不幸からいかに逃れるのか。
【 富貴は人間の幸福ではない。北京の街なかにはどこにでも石ころのように転がっているのに、皇帝と皇妃だけが持たない「自由」という宝石を、わたくしは欲したのです。 】
 富貴であるがゆえに持ち得ない自由という宝石。前代未聞の試みは成るか。
 
 インタビューに応えて作者は語る。
「まだまだ続きます、ということだけは言っておきましょう。『蒼穹の昴』以降、私もこのシリーズとともにいくらか成長しておりますので、より良いものになっていくだろう、と。」
 「いくらか成長しております」とは生中な物言いではない。謙虚に裏打ちされた自恃は、読む者を引き付けて離さない強い磁場を生む。さらに、
 「はっきり申し上げたいのは、『蒼穹の昴』で立ちどまってしまった読者は不幸だということです。あれは壮大な物語の玄関に過ぎないのですからね。」
 と続けた。12月には第二巻が発刊予定だ。未だ長城は尽きぬ。疾走する作家に振り切られてはならない。 □