伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

「ラララ」から「い」へ

2021年08月07日 | エッセー

      〽人間なんて ラララ ラララララ
        人間なんて ラララ ラララララ

 50年前の今日、喉笛を掻き毟りながら、溢れる怒気を青年はぶつけ続けた。何かに向かって……。マイクは壊れている。青年の肉声に千人を超えるオーディエンスが和し、轟音は中津川の天地を領した。

   〽何かが欲しい オイラ
    それが何だかは わからない
    だけど 何かが たりないよ
    いまの 自分もおかしいよ

 繰り返され、畳み掛けられる叫び。2時間も、だ。グルーヴはやがて呪詛となり、極北のトランスへ。1973年8月7日、中津川フォークジャンボリーはそのようにして伝説となった。
 青年は、一体、なにに怒っていたのだろう。潰えたスチューデントパワーへの憤りだたのか。この年襲ったオイルショックに経済成長の躓き、浅ましき市井の狂奔を見たためか。ベトナムの戦火は終焉したものの、テロやハイジャックは激化していく。その不条理への嘆きか。ともあれ青年は仁王立ちになってギターを掻き毟り、身を捩りながら体内の毒を嘔吐し続けた。まるでサルトルのように。
 『人間なんて』は71年のリリース。2年後の73年には岡本おさみの作詞で『ひらひら』を発表。「見出し人間」がキーワードだった。

   〽喫茶店に行けば今日もまた
    見出し人間の群れが押し合いへし合い
    …………

 交わされる恋話は週刊誌の見出しで目にした赤の他人のゴシップ。

   〽ラッシュアワーをごらんよ今日もまた
    見出し人間の群れが押し合いへし合い
    …………

 交わされる儲け話はどこかで小耳に挟んだどこかの噂話。
 「ほんとの話」を語れ。近づきすぎるとマッチの火ですら火傷する。「そんな頼りないつき合いで

   〽おいらもひらひらお前もひらひら
    あいつもひらひら日本中ひらひら

 見出しで止まり内面には踏み込まない。ステロタイプな人間の群れが日毎の活計(タツキ)を繰り返す。突き放したシニシズム臭の強い作品であった。
 そして、『ひらひら』から30星霜。2003年、『人間の「い」』を世に問う。
   〽じれったい抱きしめたい
        うしろめたいいとおしい
        許せないいくじがない
    信じていたい心地よい
    …………

 ちょうど若者たちの間で「『い』抜き言葉」が濫用され始めたころではなかったか。「痛い」ではなく「痛ッ」、「うまい」ではなく「うま」に。言葉の省力化は自然の成り行きだが、感嘆符を代替する妙手として拡散していった。彼はその流れに「い」を40数個連ねることでアンチテーゼを突き付けたのであろうか。
 「い」で終わる言辞とイ形容詞の羅列だ。日常のほぼ全ての場面を切り取って人間を活写しようとした作品だ。結びはこうなった。
   〽いつだって「い」
        これからも「い」
    人間の「い」僕たちの「い」
    永遠の「い」命がけの「い」

 「ラララ ラララララ」は「ひらひら」を挟んで、人間の「い」に至った。青・壮・老と、人生のフェーズを大鉈で切り別けた半世紀だ。こじつけと嗤うなかれ。一意的解釈より切り口が多くあることは高々と屹立する秀作の条件である。 □