片肌脱いで「この桜吹雪、散らせるものなら散らしてみろぃ!」と啖呵を切って、大立ち回り。そこに同心たちが駆けつける。気がつくと、金さんの姿がない。
後日のお白洲。正面には「至誠一貫」の扁額。遠山奉行が御成りになって、吟味がはじまる。被害者は、一部始終を知っている金さんを証人にと求める。悪人どもは端(ハナ)から認めず、すったもんだの大口論に。極まったところで、謹厳な遠山奉行がにわかにべらんめーに一転し、
「おうおう、黙って聞いてりゃ寝ぼけたことをぬかしやがって! この桜吹雪に見覚えがねぇとは言わせねえぜ!」
と片肌脱ぐ。一同、たちまち「ははぁ! 畏れ入り奉りました」と観念。
黄門様と似たパターンだ。同じく歴史上の人物に材を採っているが、およそ実物とは掛け離れた物語になっている。捻りがあるのは、印籠の替わりに彫物であることか。こればかりは贋物(ガンブツ)を拵えようがない。かつ内田樹氏がいう取り巻きによる権威の証明ではなく、苦労にも自ら片肌脱いで大見得を切らねばならない。しかも割り符のように事前の仕込みが要る。つまりあらかじめ見せておかねばならない。片や、見たこともない印籠でも──あるいは贋物であってもいいのだが──使えるのに、彫物は面倒である。
話が逸れた。9.26陸山会事件の判決についてだ。
〓〓石川被告ら小沢氏元秘書3人に有罪判決
小沢一郎・民主党元代表の資金管理団体「陸山会」をめぐる土地取引事件で、東京地裁(登石郁朗裁判長)は26日午後、政治資金規正法違反(虚偽記載)の罪に問われた衆院議員・石川知裕被告(38)ら元秘書3人に対し、いずれも有罪とする判決を言い渡した。
量刑は、石川議員が禁錮2年執行猶予3年(求刑・禁錮2年)▽後任の元事務担当秘書・池田光智被告(34)が禁錮1年執行猶予3年(求刑・禁錮1年)▽元会計責任者で、西松建設による違法献金事件でも起訴された元秘書・大久保隆規被告(50)については、土地取引事件の一部は無罪としたうえで、禁錮3年執行猶予5年(求刑・禁錮3年6カ月)とした。〓〓(9月26日付朝日)
この判決は仰天ものだ。唐突ではあるが、裁判長が遠山の金さんとオーバーラップする。今まで何度か触れてきたように、小沢氏への評価は別にして、「事件」そのものには大きなオブジェクションを突き付けざるをえない。
かつて取り上げた郷原信郎氏は、ネットに「陸山会事件の判決要旨を読んだ。唖然としたとしか言いようがない。こんな刑事判決があり得るのか。検察の立証をベースにしてきた従来の刑事司法を、(悪い意味で)根底から覆し、裁判所が、勝手な判断ができるといえる」とのコメントを寄せていた。さらに、江川紹子氏は舌鋒鋭く斬り込んでいる。以下、ネットへの投稿を要約。
◆東京地裁は検察側の証拠を自ら排除しておいて、判決ではそれを「当然……したはずである」「……と推認できる」など、推測や価値観で補い、次々に検察側の主張を認めていった。しかも、その論理展開は大胆に飛躍する。
◆刑事裁判において、裁判官の価値観と推測によって、かくも安易に共謀を認定し、刑事責任を負わせるというのは、あまりに荒っぽく、危険に思えてならない。
◆大久保被告の関与──犯罪の実行に直接関与せず、相談にも乗らず、謀議もなく、事後報告も受けず、犯罪の存在すら知らずにいても、共謀が成立して有罪となるのでは、部下の犯罪は知らずにいても上司の罪となりうる。これでは、村木厚子さんも同様になる。
◆今回の判決は、証拠重視の時代の流れに逆行している。
◆裁判所が、肝心の政治資金収支報告書の記載について淡々と証拠と法律に基づいて判断するのではなく、「政治とカネ」問題を断罪することに並々ならぬ熱意を注いでいた。
◆そもそも本件は、水谷建設からのヤミ献金の有無とは直接関係がない。ところが、この裁判では、検察側は「動機もしくは背景事情」として、このヤミ献金疑惑の立証にもっとも力を入れた。そして、裁判所もそれを許した。
◆裁判所が「政治とカネ」の問題を成敗してやる、という、ある種の「正義感」がびんびんと伝わってきた。そこに、特捜検察の「正義感」と相通じるものを感じて、強い違和感を覚えた。この種の「正義感」は「独善」につながる。
◆こういう判決は「マスコミを活用した雰囲気作りさえできていれば、薄っぺらな状況証拠しかなくても、特捜部の捜査は有罪認定する」という誤ったメッセージにならないかと危惧する。
◆今、もっとも改革が必要なのは、裁判所かもしれない。
やはり彼女の眼は公平である。極めて納得性のある論旨だ。
「淡々と証拠と法律に基づいて判断する」のが裁判である。「裁判官の価値観と推測」は無用だ。昨今、特捜のシナリオ捜査が問題視されているのに、今度は裁判官がシナリオを描いている。プロクルステスの寝台が東京地検から東京地裁に移されたのか。検察の証拠を斥けておいて結局は認めているところなぞは、捜査、検察、裁判が未分化だったお白洲を彷彿させる。まさに金さんだ。
江川氏が惧れる「ある種の『正義感』」。これが曲者だ。「『正義感』は『独善』につながる」からだ。先の「裁判官の価値観と推測」を「桜吹雪」に準えると、「その論理展開は大胆に飛躍する」様は「見覚えがねぇとは言わせねえぜ!」の大見得にぴたりと当て嵌まる。
「マスコミを活用した雰囲気作りさえできていれば、薄っぺらな状況証拠しかなくても、特捜部の捜査は有罪認定する」の「雰囲気作り」がさらに曲者だ。言い換えれば、大向う受けする状況がつくられるならば、ということだ。これは、『割り符のように事前の仕込み』として彫物を『あらかじめ見せて』おくことではないか。世にシナリオが事前に用意、流布されていることだ。あざとくいえば、人民裁判のような「雰囲気作り」だ。これなら、「薄っぺらな状況証拠」を苦もなく乗り越えられる。大向うは同じ彫物を見て、「よぉ、桜吹雪!」とヤンヤの快哉を挙げ、引かれ者たちは無理やり「畏れ入り奉りまりました」と観念を迫られる。
「独善」と「雰囲気」が相俟った時、近代刑事裁判の検察性悪説という大前提が脆くも吹っ飛んでしまう。金さんの場合、証人と裁判官が同一人物という奇妙奇天烈なドラマツルギーがあり、ほかに刑事、検事、弁護士の3役も兼ねる。もしも遠山御奉行様ご乱心となれば、まったくの暗黒裁判と化す。繰り返すが、「ご乱心」を織り込み済みで設えるのが近代裁判制度である。制度に完成形はない。ならば二審に期待すると同時に、江川氏がいうように裁判所改革こそ急務であろう。
それにしてもこの裁判官、金さんが憑きでもしたのだろうか。「よぉ、桜吹雪!」と、大向うの掛け声がほしいのか。なんとも、秋の夜長の綺談である。□