伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

コロナについての掌話

2022年09月22日 | エッセー

 「陽性です」のひと言に救急外来の診察室が凍り付いた。直ちにビニールケースがすっぽりと被せられ、患者は最上階の隔離病棟へ。
 猛烈な咳が襲う仲、心電図の電線や点滴の管が体中を覆いモニターが開始される。何重にもビニールで全身を覆う専用防護服で処置を終わると、医師と看護師は簡単な説明をし、治療費は全額国庫負担になると言い残して病室を立ち去った。
 その後訪れるのは3度の食事を運び、定期的に検査に訪れる選抜され特殊技能を身につけた看護師のみ。常に「見護る」のは24時間監視カメラだけだ。
 喉が千切れるほどの激越な咳は続く。なぜか体温は38度を越えることはない。臭覚にも嗅覚にも異常はない。絶え間なく襲うのは激越な咳に化身したデーモンだ。
 服薬は米国製とされる小指ほどもある真っ赤なカプセル。日に数個、嗚咽を堪(コラ)えながら無理矢理呑み込む。
……ひょっとしたら咳に化身したデーモンを迎え撃つ亜種のデーモンか。
 その内にもう一つのデーモンが現れる。──孤独だ。
 ビジネスホテル並みの個室ではあっても、孤絶が全身を音もなく蚕食していく。この膂力は耐え難い。デーモンは点滴の1滴1滴にメタモルし容赦なくペイシャントのこころを打ち砕いていく。彼は今、堅牢な病室に置き去りにされた孤児(ミナシゴ)なのだ。
 スマホは赦される。見舞いが届く。感涙はするものの、1通の受信が重い。レスはなお荷重を強いる。それほどに無音で不干渉で非接触の事況が気力を奪っていく。むしろ採血の針が刺さる痛苦こそが生の証を供する縁(ヨスガ)だ。二重窓の向こうに広がる気儘な天候が煩わしい書割にしか見えない。……見たくもない。
  「番長、急死」の報が届いたのは5日目のことだった。埼玉に住まう同い年の滅法気っ風がよく、喧嘩で負けたことのない男だった。市内の高校はヤツの支配下にあった。その漢(オトコ)が感染後、自宅待機中に様態が急変し逝ったという。……デーモン、それはないだろう。選りに選ってなぜヤツを連れ去った。嗚呼。 
 デーモンの化身。最強のそれは食事となって責め立ててくる。物相飯だ。いや、それ以下かも知れない。「喰えるものなら喰ってみろ」と喧嘩を売ってくる。患者をして滋養を与えるものではなく、明らかに食欲を掠め取りレジリエンスを蝕むものだ。……デーモンは終(ツイ)に栄養士に化身した。

 やがて咳魔は撃ち方を控えるようになり、長かった攻防に決着が着いた十日目。凶状持ちはなぜか五体の検(アラタ)めもせず、十日が来たことをもって一般病棟に移管された。これから併発した既往症のキュアに入るという。……デーモンは身繕いを変え、まだ追っかけてくるか。
 病床のストレスを訴え続けた一ペイシャントの声が届いたものか、電線もパイプも必要最小限に減らされた。だが返す刀で、大量の投薬が始まる。食欲が減退し、ほとんど食物が喉を通らないなか、薬という名の化学物質が体中に浸潤していく。現代医学の汀(ミギワ)が晒されたようで悍ましくもある。……人体を限りなく物質化するテクノロジー、それが今の医学だとデーモンが囁く。
 この病人がストレスフルな入院生活を脱するため繰り出した取って置きの戦法。ここだけの話──嫌われることだ。これに限る。病気に託(カコツ)けたクレーマーだ。早期退院を勝ち取る秘中の骨法である。……これが効いた。見事に。残り3週間が1週間に縮んだ。デーモンは悔しがるだろうが。
 かくして彼はガチンコ勝負を制し、生還を果たす。ただし、病院のファサードから蹌踉(ヨロボ)うように、老残の身を引き摺りながら。
 本当のところ、勝敗は決していない。病室からこの陋屋へ軍場(イクサバ)が移っただけなのだから。半月の間顔を会わすこともなく自儘な生活を堪能した荊妻には申し訳ないが、老老介護、いや老老看護が始まった。
 以上で掌話は筆を擱(オ)く。デーモンは病魔に、病人は菅の世話にはならないと一度もワクチンを打たず徒手空拳で立ち向かった稿者に置き換えていただければ、たちどころに掌話はお粗末な笑話(ショウワ)へと変ずる。蛇足まで。 □