伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

四ばか大将

2018年12月22日 | エッセー

 本年3月の小稿を再掲したい。(『三ばか大将』から抄録)

 《 アメリカの大将は2月アタマに「核戦略の見直し」(NPR)をぶちかました。核抑止力を確保するため、局地攻撃を想定した小型核弾頭の開発を進め、核兵器の使用状況を広げるとする。つまり核抑止どころか、『使える核兵器』をめざすという。
    3月アタマ、今度はロシアの大将が対抗策をぶっ飛ばした。NPRは「現実に核兵器使用のハードルを低くしている」として、ロシアは探知困難なICBMや無制限の射程距離に核弾頭を運べる巡航ミサイルを開発したとぶち上げた。それは将来のあらゆる迎撃システムを搔い潜る能力を持つという。こちらは『無敵の核兵器』だと咆えた。
    『韓非子』に「矛盾」という話がある。昔々あるところで、武器商人が「あらゆる盾を貫く矛」と「あらゆる矛を跳ね返す盾」を並べて売っていた。 
   内田 樹氏は武器の進化は両者が「併存することではじめて可能になる」と語る(祥伝社『変調《日本の古典》講義』)。もしどちらかが単独で存在したら、それが「最終兵器」となり「それでもう終わり」だという。進歩はそこで止まってしまう。
〈だからこそ、「あらゆる盾を貫く矛」の横にはつねに「あらゆる矛を跳ね返す盾」が置かれていなければならない。矛盾があるから、イノベーションがあり、歴史があり、文明の進化がある。六〇年代米ソの核競争というのは、「完璧な先制核攻撃システム」という「矛」と「完璧な迎撃システム」という「盾」の間で展開したわけですよね。でも、その時に学んだこともある。それは、戦争テクノロジーはどれほど進化しても、「最終兵器」を作り出すことはできないということと、「最終兵器」は存在すべきではないということです。僕は韓非の教えもそういうことだと思うんです。〉
   早い話が、こちらのイノベーションは壮大な無駄に終わるということだ。しかし2人の大将は50年も矛盾を繰り返した挙句にも、まだ料簡ができない。作り出せない「最終兵器」という見果てぬ悪夢に未だ呪われている。そしてもう1人、NKの大将がいる。NKは「世界最強の核強国として飛躍する」と、昨年末雄叫びを上げた。3、4周遅れで“楯”突くつもりなのか。
 「矛盾」とは「最終兵器」の不可能を教示する中国古典の智慧である。夢寐にも忘れてはならぬ人類の叡智だ。 》

 先日、またしても次のような報道があった。
 〈プーチン氏、対抗措置表明 自国防衛と強調 米INF条約破棄
 ロシアのプーチン大統領は20日、年末恒例の大規模記者会見に臨んだ。米国のトランプ大統領が10月に表明した中距離核戦力(INF)全廃条約の破棄に対抗措置をとることを表明。「抑止と(米ロの戦力の)バランスをとるためだ」と話して軍拡競争も辞さない姿勢を示す一方で、目的はあくまでも自国防衛のためだと強調した。〉(12月21日付朝日から)
 あっちが約束を破って矛を作りはじめたとアメリカの大将は言う。だからこっちだって。でも、こちらのは「あくまでも自国防衛のため」の盾だと。で、今度は本邦の大将だ。
 〈防衛費最高、5年27兆円 「空母」導入明記 大綱・中期防決定
 安倍内閣は専守防衛を逸脱するとの批判がある事実上の「空母」の導入に踏み切った。中期防では2019~23年度にわたって調達する防衛装備品などの総額は27兆4700億円程度と明記。過去最高水準になった。トランプ政権の「バイ・アメリカン」の圧力も強く、陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」の導入。さらに米国製の戦闘機F35を現在取得中の42機からさらに105機を追加購入。追加の総額は少なくとも約1兆2千億円に上る見通しだ。〉(12月19付朝日から抄録)
 これで四ばかの揃い踏みだ。対米経済交渉でのお目こぼしを期待して、武器購入で辻褄を合わせようとの算段にちがいない。中国の大将も意気軒昂だから、「盾」の理屈と膏薬はどこへでもつく。(中国の大将も入れれば五ばか大将になるが、今回は三ばか+そのポチに絞る)
 如上のような言い分にはいつも「平和ボケ」なるストックフレーズが返ってくる。くだくだ言うのも面倒なので、「一言以て之を蔽う」箴言を提示したい。
 〈「戦う」ということが日常的にありうる段階だと、「戦う=勝つ」に対して冷静な目が向けられます。一方、「戦う」ということが日常から遠ざかってしまうと、人は「なにか」をへんな風に刺激されて、要もない戦いに「勝ってやる」などと考えてしまうのかもしれません。どこかの国の総理大臣が「積極的平和主義」なんていうことを言い出しましたが、これが現実認識を欠いた「蛮勇」でないことを祈りましょう。〉(『負けない力』から)
 橋本 治氏の肺腑を抉ることばである。氏はいつもことの本質を鷲掴みにする。命が懸かった戦さに直面していれば自他の現実を冷徹に見極めざるを得ない。この定理から逸脱すると帝国軍隊の二の舞を演じることになる。現実認識に緩みや甘さが入りこむのは「なにか」、例えば夜郎自大が鎌首をもたげることかもしれない。「冷静な目」は戦さを負う中にこそある。だから、「平和ボケ」とは好戦的構えのことだ。「蛮勇」こそ「平和ボケ」の帰結である。
 イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史』は昨年1月に紹介した。その続編『ホモ・ゼウス』が今秋また話題を呼んでいる。同書でハラリは、20世紀後半人類は戦争が当たり前の「ジャングルの法則」から抜け出たという。古代の農耕社会では死因の15パーセントが暴力だったのに対し20世紀には暴力は死因の5パーセント。21世紀初頭には1パーセント。しかも戦争はその2割だと記す。ハラリほどの深い学識に裏打ちされた巨視が歴史を鳥瞰すると、人類はついに戦争を克服したと見て取れるのだ。その理由をハラリは、
「核兵器のおかげで、超大国の間の戦争は集団自殺という狂気の行為になり、したがって、この地上で屈指の強国はみな、争いを解決するために、他の平和的な方法を見つけることを強いられた。」
 と述べる。「おかげで」とはハラリにして初めて為せる逆転の発想だ。ただ浅学非才を顧みず、盲蛇に怖じずに申し上げれば、「屈指の大国はみな」まともなトップリーダーに恵まれていたという歴史の僥倖をお忘れになっているのではないか。冷戦時代は「『戦う』ということが日常的にありうる段階」であった。本当にありえたのだ。例えばキューバ危機ではフルシチョフとケネディが「冷静な目」を失わなかった。ただし今はバ○ばかり。「平和ボケ」がついつい「蛮勇」を振るわないとも限らない。油断は禁物だ。 □