伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

妻はクロマニヨン人?

2014年03月10日 | エッセー

 わが家の物置はジャンクの収納庫である。油断をすると、いつの間にか不要不急(正確には、無期限で無用無益)、意味不明な品々が屋内を不当占拠する。ために、見つけ次第強制排除してきた結果である。その度、荊妻との熾烈な攻防があった。鉄砲玉は飛ばないまでも罵声が飛び交い、血は流れないまでも凍てついた時間が流れた。近ごろはいきなりの物置直行が増えた。紛争回避の知恵ではあろうが、今度は物置のくせに物の置けない事態となっている。昨年末の大掃除は、その余りの惨状に気圧されて翌年回しにした。
 得体の知れないガラス器。しげしげと見詰めてもまるで用途が浮かばない。金だか銀だかのメッキをしたスプーンセット。すでに売りに行くほどあるのに、スプーン曲げにでも使うのであろうか。救い(掬い?)がたい。現在使用中の物を含めて3台目のコーヒーメーカー。この2台が日の目を見るころにはきっと型が古くなっている。ビニールの傘。何年も差さないままの何本もの傘。本当に嵩(傘?)張る。土鍋、鉄鍋。重くて壊れそうで扱いに困る。こんなにあれば、相撲部屋でもやれそうだ。小物を載せる飾り棚。木製でいかにもとってつけたような棚。ところが、これを取って付けるから参る。災害避難でも間に合うほどあるのに、まだ要るのかと頭を抱えるアウトドア用品。バーベキューセットはついに5セットに達した。折りたたみ椅子、テーブルは向こう三軒両隣が使っても余る。ミキサーだかジューサーだか釈然としないメイドイン○○の怪しげな電化製品。なにせ調達した本人が一度もスイッチを入れたことがない。頭の中がぐちゃぐちゃに引っかき回されているにちがいない。ちまちまとしたフィギュアの類い。シンプル・イズ・ベストを旨とする稿者にとっては敵以外のなにものでもない。わが精神の安定をかき乱す不心得者は発見のたびに個別撃破する。番度に生け捕り、もしくは成敗した亡骸が増える。いちいち挙げれば切りがない。かくて而してタンスの肥やしを引き受け続けた挙句、今や物置は身動き取れないジャンク・タンスと化したのである。
 ほとんどがバザーなるものより荊妻が求めたものである。稿者は密かに『バザー・アディクション』と呼んでいる。これに数年前から通販が加わった。名前は言えないが、長崎訛りの社長が直々にセールスするあれだ。昨年本ブログ(9月「買って頂戴よ。どう?」)でも触れたように、稿者は嫌いではない。好きだ。しかし、買いはしない。ところが傍らの御仁は「お急ぎください」の台詞が終わらないうちに電話を始めている。決断が速いのか、思考停止が早いのか。おそらく後者であろう。時として身に覚えのない製品が届けられる。宛名は家主だが記憶も記録も、ましてや思い出もない。意地悪いことに、決まって代引きだ。家にいながらの追い剥ぎである。またも、と連絡を取ると案の定だ。なぜ都合の悪いことは都合よく忘れられるのか。こっちの都合も考えてほしいものだ。こないだなどは、宅急便に再訪を頼んで銀行へ走った。まったく偶然にも残高があったから事なきを得たが、普段なら赤っ恥をかくところだった。
 さすがに下取りもあって通販が物置を侵略することは、今のところない。しかしこれとて安心はできない。『バザー・アディクション』に『通販・アディクション』が昂じると物の置き所どころか、身の置き所がなくなる恐れがある。家財的事由によって、である。ただ浪費癖というわけではない。ここだけの話だが、実はケチだ。ただしバザーやフリマーと通販だけは箍が外れる。なぜなのか。考え倦ねていたところに、恰好の示唆に巡り会った。フジテレビ『ホンマでっか!?TV』に時々出演する脳科学者・中野信子女史の近著『脳内麻薬』(幻冬舎新書、本年1月刊)である。快楽物質であるドーパミンを中心に脳のメカニズムを論じている。冒頭、こう述べる。
◇幸福感に包まれるとき、私たちの脳の中では、快楽をもたらす物質「ドーパミン」が大量に分泌されています。この物質は食事やセックス、そのほかの生物的な快楽を脳が感じるときに分泌されている物質と、ギャンブルやゲームに我を忘れているときに分泌されている物質とまったく同じなのです。これは一体どういうことなのでしょう。ヒトという種は、遠い将来のことを見据えて作物を育てたり、家を建てたり、さらには村や国を作り、ついには何の役に立つのかわからない、科学や芸術といったことに懸命に力を注ぐような生物です。そういった、一見役に立つかどうかわからなそうな物事に大脳新皮質を駆使することで結果的に自然の脅威を克服し、進化してきた動物がヒトであるともいえるでしょう。◇
 詳しくは同書に当たってもらうしかないが、生物的快感と知的快感が脳内の同一部分で同一物質によって引き起こされる、これには耳目を欹てざるを得ない。「一見役に立つかどうかわからなそうな物事に大脳新皮質を駆使することで結果的に自然の脅威を克服、進化してきた動物がヒトである」、ここだ。ひょっとして荊妻は大きく先祖返りして、人類の進化を準っているのではないか。病気でないとしたら、そうとでも解さないと滅入る。そこでさらに蘇ってきたのが、今や古典的名著となった内田 樹氏による『先生はえらい』(ちくまプリマー新書、05年刊)である。「沈黙交易」を語ったところだ。以下、抄録。
◇例えば、双方の部族のどちらにも属さない中間地帯のようなところに、岩とか木の切り株とか、そういう目立つ場所があるとしますね。そこに一方の部族の人が何か彼らのところの特産品を置いてきます。そして、彼が立ち去った後に、交易相手の部族の人がやってきて、それを持ち帰り、代わりに彼の方の特産品をそこに残してゆく。そういうふうにして、顔を合わせることなしに行う交易のことを「沈黙交易」と言うのです。これがたぶん交換というものの起源的な形態ではないかと私は思います。「特産品」というのも、たいせつな条件ですね。両方の部族がどちらも所有していて、その使用価値がわかっている品物を交換するわけではないんです。
 いかなる価値があるのかわからないものを交換しあうというのが沈黙交易の(言い換えると、起源的形態における交換の)本質です。沈黙交易においては、価値のあるものを贈られたので、それにちゃんとお応えしようとして、等価物を選んで贈り返すわけではないんです。
 価値のわかりきったものを交換するというのは、「交渉を断ち切りたい」という意思表示なわけです。完全な等価交換というのは、交換の無意味性、あるいは交換の拒絶を意味します。ということは、「なんだか等価みたいな気もするんだけれど、なんだか不等価であるような気もするし……ああ、よくわかんない」という状態が交換を継続するためのベストな条件だということになりますね。実は、市場における商品の価値というのは、この「商品価値がよくわからない」という条件にかなりの程度まで依存しているんです。
 「何か別のものと交換したくて、たまらなくなる」気持ちを亢進させる力、それを私たちは「経済的価値」と呼んでいるのです。どうしてかと言いますと、誰かと何かを交換することが私たち人間にとっては、尽きせぬ快楽をもたらすからです。どうして、それが快楽なのか、その理由を私たちは知りません。交換のうちに快楽を見出したのは、クロマニヨン人とされています。その前のネアンデルタール人までは、交換をしなかったからです。◇
 と起源的交換を明かし、さらに論は進む。
◇私たちは機会さえあれば、交換の原初の形である沈黙交易に戻りたがる傾向があります。インターネットでものを買うネットショッピングや、TVでやっているTVショッピングや、『通販生活』は、実は沈黙交易の新ヴァージョンじゃないでしょうか? 店で買うより割高の、それも不要不急の品物を、買わずにはいられないというこの衝動はどこから来ると思いますか? 通販が本質的なところで沈黙交易的だからだと私は思います。交換相手の顔も見えないし、声も聞こえない。無言でお金を送金すると、無言で品物が届けられる。相手がそういうふうに見えないものであればあるほど、私たちはでも、クロマニヨン人以来、ずっと人間はそうなんです。それに第一、どうして社名が「アマゾン」なんです? 変でしょう? もっとも先端的なネットビジネスの会社名が、どうして世界でもっとも深い密林地帯を流れる川の名前なんです? なんで「ハドソン・ドットコム」とか「セーヌ・ドットコム」とか「スミダガワ・ドットコム」じゃないんです? アマゾン・ドットコムの創業者はおそらく自分たちのビジネスが本質的なところでかつて《マト・グロッソ》の密林の奥でインディオたちが行っていた沈黙交易と同質のものであることを直感していたんだと思いますね。◇
  「アマゾン」には、唸る。年来の疑念に爽快なる明答をいただいた。いつも言うことだが、内田先生はやはり偉い。
 「どうして、それが快楽なのか、その理由を私たちは知りません」「どうにも抑えがたい衝動を感じてしまう。理由は不明。」を、脳科学から解こうとすれば如上のドーパミン説に繋がるのではなかろうか。ともあれ、荊妻がネアンデルタール人の系譜を引かないことだけは判明した。ホモ・サピエンスへと括られるクロマニヨン人にルーツがあると断じてよかろう。「私たちは機会さえあれば、交換の原初の形である沈黙交易に戻りたがる傾向があります」その通り(「私たち」に私は含まないでほしいが)。バザー、フリマー、通販、いずれも「沈黙交易の新ヴァージョン」ではないか。
 さきほど図鑑でクロマニヨン人を検めた。んー、荊妻の姿に重ならなくもない。やはりそうか、不思議な納得だ。おまけにわが家の物置も、鬱蒼たるジャンク(ジャングルではなく)に覆われたアマゾンに似てきた。やはり大掃除を急いだ方がよかろう。片付け“こんまり”流でいくと、すべて廃棄だ。ところが、荊妻には『ときめき』の楽園である。今度ばかりは鉄砲玉どころか、ミサイルが飛ぶかもしれない。えい、ままよ。突撃あるのみだ。 □