伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

変化球

2013年06月15日 | エッセー

 “0.4134”と聞いて、何の数字かお解りだろうか。プロ野球の統一球に適用される「反発係数」である。11年に導入された時、“0.4134から0.4374”までと規定され、統一球は下限の“0.4134”を目標とした。「反発」だから、低いほど飛びにくい。ところが今季は一転、“0.415~0.416”を目標に定めた。しかも、内緒で。コミッショナーは知らぬ存ぜぬと白を切っている。暖簾に腕押し。こちらの反発係数はゼロにちがいない。
 わずか“0.02”の違いだが、約40センチ飛距離が伸びるという。打撃に軸足を移したわけだ。知らされなかったバッターの中には、前季の成績では今季は打てないと諦めて引退した者までいる。まことに罪作りなことである。
 左や右に曲がったり、落ちたり、揺れたりが変化球とばかり料簡していたが、球そのものを変える新手が出ようとは、“大リーグボール1号・2号”も真っ青ではないか。事は成績に直結する。特にピッチャー、スラッガーには深刻だ。ゲームのルールを変える以前の問題である。いわば『メタ・ルール』の改変である。
 そこでとても興味深い言説を引いてみよう。ボールは呪具である、ということだ。
 内田 樹氏が「街中のアメリカ論」<あとがき>(文春文庫)で、野球を一度も見たことがない人にどう説明するかという問いを立てている。
「球場のサイズやバットやグローブの材質や変化球の種類などということを言いだしたら、まず何十時間を要しても、その本質を知らない人に伝えることはできない」 しかし、「野球がゲームである限り、そこにはあらゆる人間社会に共通する『ゲームの本質』があるはずであり、それを適切に指摘しさえすれば」了解に導くことができるのではないか、という。そこで、
「あらゆるボールゲームは『呪具=ボールに最後に触れたのは敵か味方か』『呪具は<今生きている>(イン=穢れのない状態)か<死んでいる>(アウト=穢れた状態)か』という二つの二項対立に基づいている」
 と説明することで本質的理解は得られるとする。
 呪具には最後に触れた者の呪いが籠もる。野球やサッカー、バレーボール、すべてこの二項が問題となる。ピッチャー(味方)が投げたボールにはピッチャーの呪いが籠められ、バッターが打ち返せば、敵の呪いが籠もったボールとなって飛んでいく。野手が捕球すれば味方の呪具となる。つまり、呪具の所有権がまず問われる。これが一つ目の二項対立。
 二つ目が穢れの有無。投球がストライクゾーンという穢れのない状態を通過したか否か。打球の落下がインフィールドか否か。所有する呪具の死活が問われる。この二項対立だ。
 所有権と死活。この二つの二項対立が絡み合ってゲームが進行する。それが「あらゆるボールゲーム」の枝葉を取り払った本質である。
 では、なぜ呪具なのか。ボールは決して幸運を運ぶものではないからだ。“招福のボール”なら、決して「二つの二項対立」なぞ起こらない。敵に幸福を運ぶバカはいない。そうだとすれば、デッドボールはピッチャーの得点となり、サッカーはオウンゴールだらけになる。バレーボールは相手コートに返さなくなる。このネガティヴな構造性にフォーカスしたところが、さすがの炯眼である。
 統一球には発案者であるコミッショナーのサインが入っているそうだ。わざわざ御丁寧にも呪具に呪者の名を記しているといえなくもない。いかなる呪詛が籠められているのか。ともかく、そんな忌まわしい道具は早々に取り替えるに如くはない。DJポリス風にいえば、「コミッショナーさんは0番目の選手です。日本代表はルールとマナーを守ることで知られています。コミッショナーさんもゲームのルールを守りましょう」とでもなろうか。 □