欠片の主張 その2 を打ち上げてみたい。途中で失速しておのれの脳天に突き刺さるか、はたまた何ものにも擦りもせず、雨樋かなんぞにひっかかって果てるか。心もとない限りだが、『矢』も楯もたまらぬ真情だけはおくみおき願いたい。
―― 「思う」という言葉についてである。
私の長年月にわたる密かなこだわりである。
きっかけははるか昔、井上陽水の『夢の中へ』を聴いた時。「行ってみたいと思いませんか」のフレーズだった。妙に耳障りだった。以来、この言葉が気になり始めた。その当時からかどうかは定かでないが、ラジオのDJも「では、次の曲にいってみたいと思います」などと言い始めていた。
これは『馬から落ちて、落馬して』の類いではないか、と思案を始めた。「みたい」はすでに願望を含んでいる。それに「思います」と付けたのでは丁寧すぎないか。私はこれを『落落馬』と読んでいる。二重敬語は同類かもしれない。「お読みになられる」など、一つの動詞を二重に尊敬語化する語法だ。もちろん、避けるのが常道だ。
「広辞苑」を引くと、「思う」には次のような意味がある。
① 物事の条理・内容を分別するために心を働かす。判断する。思慮する。心に感ずる。「思っていることを口に出す」
② もくろむ。ねがう。期待する。「世の中すべて思うようにはいかぬ」
③ おしはかる。予想する。想像する。予期する。「思ったほどおもしろくなかった」
④ 心に定める。決心する。「思うことありげに席を立った」
⑤ 心にかける。憂える。心配する。「我が子の上を思う」
⑥ 愛する。慕う。いつくしむ。大切にする。「子を思う親の心」
⑦ 過去の事を思いおこす。思い出す。回想する。「亡き母を思う」
まとめると、①思慮 ②期待 ③予想 ④決心 ⑤心配 ⑥慈愛 ⑦回想 の七つになる。実に多義にわたる。心の動きほとんどをカバーすると言っていいくらいだ。多義であることは、すなわち曖昧に通じる。箸はフォークにもなればナイフにもなる。ただ、洋食も箸ではどうにも風情が飛ぶ。便利であることは、すなわち無粋に通じる。
先の『落落馬』については、自体に丁寧語の働きはもたない。②か、もしくは④の意味をもたせて付け加えるのであろう。二重敬語同様、避けるべきだ。
さらに大事な問題は「考える」との違いだ。小中学校では意見発表の際、「……と思います」と言うよう、指導していると聞く。これは由々しき事態だ。①からの派生であろうが、この二つには基本的な相違がある。以下、碩学の識見を引く。
―― 大野 晋著「日本語練習帳」(岩波新書)から
≪「思う」と「考える」の違い≫
「思う」とは、一つのイメージが心の中にできあがっていて、それ一つが変わらずにあること。胸の中の二つあるいは三つを比較して、これかあれか、こうしてああしてと選択し構成するのが「考える」。この違いは昔からあったのです。
「考える」という言葉を古くさかのぼると、罪人を刑罰に処するときに、「……に勘ふ」と言いました。「事柄を突き合わせてしらべる」のが「考える」の最古の使い方です。現在も、「企画を考える」とか「献立を考える」とか、あれこれ組み合わせるときに「考える」という。そこには「思う」は使いません。
古い文学の中に出てくる「思ふ」は、「胸の中に思っている」と置き換えるといい例が多い。言葉には出せずに、好きな人を恋する。それを「思ふ」という。胸の中には一人の人の姿しか見えない。それをじっと抱いている。「思う」は胸の中の一つのイメージをじっと大事にしていることですから、「試験を受けようと思う」というときには、そのこと一つを心の中で決めていることです。
それに対して、「考える」にはあれかこれかという比較の観念、あるいは組み立て、構成の気持が含まれている。 ――
とすれば、意見発表は当然、「……と考えます」であろう。つまり、対象が一つの場合は「思う」、複数の場合は「考える」となる。だから、「今晩のおかずを思う」とは言わない。「今晩のおかずを考える」である。ところが、近年、この使い分けが曖昧になってはいないか。「いろいろ思うところありまして、退職いたします」などと使う。明らかな誤用である。「いろいろ」は「考える」だ。
推測するに、これは多義である特性を使った曖昧表現ではないか。①では間違いだが、② ③ ⑤ なら使える、といった具合だ。
曖昧、必ずしも悪いとは言わない。機械だってアソビは要る。人間はアンドロイドではない。曖昧でない心など、ついぞ出くわしたことがない。情緒は同族、同根であろう。だが、度が過ぎると言語本来の機能を逸失する。言えども、伝わらず。書けども、分からず。だけならまだしも、あらぬ誤解をうんでは元も子もない。
私には20年来心掛けてきたことがある。話し言葉、書き言葉ともに「思う」を取り除くこと、意味を絞って外の言葉に置き換えること、である。ボキャブラリーの中から特定の言葉を排斥するのは骨が折れる。しかも長年慣れ親しんだものであればなおさらだ。難儀な作業であった。失語症のように口ごもること、再々であった。しかし、慣性(ナライセイ)と成る、である。かつ、幾分かは歯切れがよくなった。ひそかな心掛けもムダではなかったような気がする。本ブログでも、引用文以外、「思う」は一カ所もない。
そこで、欠片の主張 その2 ―― 「思う」を丁寧表現で使うのは止めよう!
「御挨拶させていただきたいと思います」は、「御挨拶させていただきます」。「行ってみたいと思います」は「行ってみましょう」。どれだけスッキリすることか。『落落馬』使用をさけることで日本語の言語空間は相当晴れる。まずはここから出発したい。
ポーカーではジョーカーはワイルドカードだ。変幻自在、重宝この上もない。だが、ばば抜きのばばでもある。□
―― 「思う」という言葉についてである。
私の長年月にわたる密かなこだわりである。
きっかけははるか昔、井上陽水の『夢の中へ』を聴いた時。「行ってみたいと思いませんか」のフレーズだった。妙に耳障りだった。以来、この言葉が気になり始めた。その当時からかどうかは定かでないが、ラジオのDJも「では、次の曲にいってみたいと思います」などと言い始めていた。
これは『馬から落ちて、落馬して』の類いではないか、と思案を始めた。「みたい」はすでに願望を含んでいる。それに「思います」と付けたのでは丁寧すぎないか。私はこれを『落落馬』と読んでいる。二重敬語は同類かもしれない。「お読みになられる」など、一つの動詞を二重に尊敬語化する語法だ。もちろん、避けるのが常道だ。
「広辞苑」を引くと、「思う」には次のような意味がある。
① 物事の条理・内容を分別するために心を働かす。判断する。思慮する。心に感ずる。「思っていることを口に出す」
② もくろむ。ねがう。期待する。「世の中すべて思うようにはいかぬ」
③ おしはかる。予想する。想像する。予期する。「思ったほどおもしろくなかった」
④ 心に定める。決心する。「思うことありげに席を立った」
⑤ 心にかける。憂える。心配する。「我が子の上を思う」
⑥ 愛する。慕う。いつくしむ。大切にする。「子を思う親の心」
⑦ 過去の事を思いおこす。思い出す。回想する。「亡き母を思う」
まとめると、①思慮 ②期待 ③予想 ④決心 ⑤心配 ⑥慈愛 ⑦回想 の七つになる。実に多義にわたる。心の動きほとんどをカバーすると言っていいくらいだ。多義であることは、すなわち曖昧に通じる。箸はフォークにもなればナイフにもなる。ただ、洋食も箸ではどうにも風情が飛ぶ。便利であることは、すなわち無粋に通じる。
先の『落落馬』については、自体に丁寧語の働きはもたない。②か、もしくは④の意味をもたせて付け加えるのであろう。二重敬語同様、避けるべきだ。
さらに大事な問題は「考える」との違いだ。小中学校では意見発表の際、「……と思います」と言うよう、指導していると聞く。これは由々しき事態だ。①からの派生であろうが、この二つには基本的な相違がある。以下、碩学の識見を引く。
―― 大野 晋著「日本語練習帳」(岩波新書)から
≪「思う」と「考える」の違い≫
「思う」とは、一つのイメージが心の中にできあがっていて、それ一つが変わらずにあること。胸の中の二つあるいは三つを比較して、これかあれか、こうしてああしてと選択し構成するのが「考える」。この違いは昔からあったのです。
「考える」という言葉を古くさかのぼると、罪人を刑罰に処するときに、「……に勘ふ」と言いました。「事柄を突き合わせてしらべる」のが「考える」の最古の使い方です。現在も、「企画を考える」とか「献立を考える」とか、あれこれ組み合わせるときに「考える」という。そこには「思う」は使いません。
古い文学の中に出てくる「思ふ」は、「胸の中に思っている」と置き換えるといい例が多い。言葉には出せずに、好きな人を恋する。それを「思ふ」という。胸の中には一人の人の姿しか見えない。それをじっと抱いている。「思う」は胸の中の一つのイメージをじっと大事にしていることですから、「試験を受けようと思う」というときには、そのこと一つを心の中で決めていることです。
それに対して、「考える」にはあれかこれかという比較の観念、あるいは組み立て、構成の気持が含まれている。 ――
とすれば、意見発表は当然、「……と考えます」であろう。つまり、対象が一つの場合は「思う」、複数の場合は「考える」となる。だから、「今晩のおかずを思う」とは言わない。「今晩のおかずを考える」である。ところが、近年、この使い分けが曖昧になってはいないか。「いろいろ思うところありまして、退職いたします」などと使う。明らかな誤用である。「いろいろ」は「考える」だ。
推測するに、これは多義である特性を使った曖昧表現ではないか。①では間違いだが、② ③ ⑤ なら使える、といった具合だ。
曖昧、必ずしも悪いとは言わない。機械だってアソビは要る。人間はアンドロイドではない。曖昧でない心など、ついぞ出くわしたことがない。情緒は同族、同根であろう。だが、度が過ぎると言語本来の機能を逸失する。言えども、伝わらず。書けども、分からず。だけならまだしも、あらぬ誤解をうんでは元も子もない。
私には20年来心掛けてきたことがある。話し言葉、書き言葉ともに「思う」を取り除くこと、意味を絞って外の言葉に置き換えること、である。ボキャブラリーの中から特定の言葉を排斥するのは骨が折れる。しかも長年慣れ親しんだものであればなおさらだ。難儀な作業であった。失語症のように口ごもること、再々であった。しかし、慣性(ナライセイ)と成る、である。かつ、幾分かは歯切れがよくなった。ひそかな心掛けもムダではなかったような気がする。本ブログでも、引用文以外、「思う」は一カ所もない。
そこで、欠片の主張 その2 ―― 「思う」を丁寧表現で使うのは止めよう!
「御挨拶させていただきたいと思います」は、「御挨拶させていただきます」。「行ってみたいと思います」は「行ってみましょう」。どれだけスッキリすることか。『落落馬』使用をさけることで日本語の言語空間は相当晴れる。まずはここから出発したい。
ポーカーではジョーカーはワイルドカードだ。変幻自在、重宝この上もない。だが、ばば抜きのばばでもある。□