年賀状の時期である。わたしは十年前から干支にちなんだ賀状を作っている。干支に関係する人物に語らせるか、干支について語った人物を登場させるか。毎年、愉しみながらも呻吟する。
寅年はもちろん「寅さん」。寅さんに名台詞を語らせた。巳年は悩んだ末に、「美濃の毒蝮」こと斎藤道三。未年はポール・マッカートニーの「RAM」。ソロでの最初のアルバム。ジャッケトを失敬して貼り付けた。戌年は養老孟司氏の著作から野犬についての話を抄出した。
さて来年である。亥年。これがなかなか、ない。「『猪突猛進』どい!」とおやじギャグもひねってみたが、嘲笑を買いそうなので止めた。とこうした挙げ句、浮かんできたのが「猪武者」だ。と、次に「三国志」に連想がとび、ついに「趙雲」に行き着いた。「三国志」に登場する代表的な猪武者である。
数十年ぶりに吉川英治の「三国志」に当たってみた。「長坂橋(チョウハンキョウ)」の章に、単騎敵陣に突入し劉備の子供を救い出した趙雲 子龍と劉備 玄徳の劇的なやりとりが描かれている。次のように ―― 。
玄徳は思わず頬ずりした。あわれよくもこの珠の如きものに矢瘡(ヤキズ)ひとつ受けずにと……われを忘れて見入りかけたが、何思ったか、
「ええ、誰なと拾え」
と云いながら、
阿斗の体を、毬のように草むらへほうり投げた。
「あっ、何故に?」
と、趙雲も諸大将も、玄徳のこころをはかりかねて、泣きさけぶ公子を、大地からあわてて抱き取った。
「うるさい、」あっちへ連れて行け」
玄徳は云った。
さらにまた云った。
「思うに、趙雲のごとき股肱の臣は、またとこの世で得られるものではない。それをこの一小児のために、危うく戦死させるところであった。一子はまた生むも得られるが、良き国将はまたと得がたい。……それにここは戦場である。凡子の泣き声はなおさら凡父の気を弱めていかん。故にほうり投げたまでのことだ。諸将よ。わしの心を怪しんでくれるな」
「…………」
趙雲は、地に額をすりつけた。越えてきた百戦の苦も忘れて、この君のためには死んでもいいと胸に誓い直した。原書三国志の字句を借りれば、この勇将が涙をながして、(肝脳地にまみるとも、このご恩は報じ難し)
と、再拝して諸人の中へ退がったと記している。
なんとも古格然とした筆致で、ついつい読み耽ってしまった。さらに、曹操軍の追撃にたった一騎で対峙し撤退させた武勲に、劉備は「子龍は満身これ胆である」と讃えてもいる。つまりは趙雲、猪武者にあらず、ということだ。猪突はしても、勇が無鉄砲を凌駕したのだ。加えて、忠。まことに好漢の一語に尽きる。干支には似つかわしくない。が、似て非なる事情を略記することで賀状は切り抜けた。要領のいい便法である。
さらに想念は転じ、日本の猪武者に及んだ。 ―― 打って付けの人物がいた。
長州藩、来島(キジマ)又兵衛。と言うよりも、幕末の長州そのものが一藩あげての猪武者であった。その格好の一典型こそ、来島である。文字通り無鉄砲、無思慮、猪突の荒武者であった。
文久・元治・慶応。維新に至る四、五年間、時代は熱湯のごとく滾(タギ)る。文久3年、「八月十八日の政変」で京都を追われた長州。明くる元治元年、「池田屋事件」を機に長州軍は入京。免罪の直訴に及ぶ。聞き入れられる筈もなく、薩摩・会津を中軸とする幕府軍と干戈を交えることに。その渦中のことである。
来島 又兵衛 ―― 江戸遊学の後、藩の要職を歴任。激烈な尊攘の志士であった。高杉が奇兵隊を創設すると、彼は自ら遊撃隊を組織して互いに連携する。「八月十八日の政変」を受けて、京への出兵を頑強に主張。奸計を察知した高杉の制止を振り切って、諸隊を率いて上洛。蛤御門の変の導火線となる。
―― と、話がここまでくると、当然、司馬遼太郎であろう。
「世に棲む日日」は活写する。
―― 御亭(ゴテイ)は、いくさ狂いのお人にて。
と、この時期こぼしていたのは、来島の妻のおたけであった。来島は養子でこのおたけにだけは頭があがらず、こんどの一挙についても、「もうこんどだけで思い切る。この一挙がおわればあとは家でおとなしく暮らす」と、女房にいっていた。又兵衛は幕末よりも元亀天正の世にうまれてきたほうがずっと似つかわしい男であった。女房には「もうこれっきり」とおがむようにいっていたが、じつはかれはこの一挙で死ぬつもりだったらしく、出発命令を待ちつつ元治元(一八六四)年の元旦が明けたとき、
「この首をとるかとらるか今朝の春」
と、ぶきみな俳句をつくっている。来島はこのとき四十八歳で、いわゆる幕末の志士のなかではとびぬけて年嵩であった。(「暴発」から)
1600にすぎない長州軍が、十倍を超える鉄壁の幕府軍に突入する。凄まじい突撃だった。しかし優勢は一時(イットキ)、ついに敗走。洛中は3万戸を焼いて火の海となる。無謀というより、実態は自爆行為にすぎない。
薩軍の将は、西郷吉之助であった。西郷は、馬上の来島又兵衛さえ射ちおとせば長州兵は潰乱すると見、配下の川路利良(のちの初代警視総監)をよび、狙撃を命じた。
結局、又兵衛は胸を射ぬかれて落馬し、しばらく地を這っていたが、やがて槍の穂先を逆手にもってみずからののどを突いて死んだ。西郷のみたとおり、長州の潰走はこれからはじまった。(「灰燼」から)
幕末の長州は暴走に暴走を重ねる。なにがそうさせるのか。司馬遼太郎は語る。
「狂」
というものであろう。狂とは、イデオロギーへの殉教性というべきものであった。思想集団でなければこの大軍のなかに突入できるものではなく、突入すればむろん死が待っていた。淵源を松陰に発した思想の戦慄性が、長州人集団をここまで熱狂させるにいたった。人間はときに集団としての発狂を欲する動物なのかもしれないが、それにしてもその発狂のための昂奮剤は思想でなければならない。思想というものにこれほどまでの大昂奮を示したのは、日本史上こんにちにいたるまで幕末の長州人集団しか存在しない。(「灰燼」から)
「思想というものにこれほどまでの大昂奮を示し」、集団ヒステリーと化して暴発を繰り返した長州。猪突し、壮絶に果てた来島又兵衛。はたして、犬死にであったろうか。
「猪武者」集団は潰走するが、やがて維新回天の主軸へと転じていく。その後の展開を俯瞰したとき、又兵衛は確実に歴史の中のなにものかと刺し違えている。□
寅年はもちろん「寅さん」。寅さんに名台詞を語らせた。巳年は悩んだ末に、「美濃の毒蝮」こと斎藤道三。未年はポール・マッカートニーの「RAM」。ソロでの最初のアルバム。ジャッケトを失敬して貼り付けた。戌年は養老孟司氏の著作から野犬についての話を抄出した。
さて来年である。亥年。これがなかなか、ない。「『猪突猛進』どい!」とおやじギャグもひねってみたが、嘲笑を買いそうなので止めた。とこうした挙げ句、浮かんできたのが「猪武者」だ。と、次に「三国志」に連想がとび、ついに「趙雲」に行き着いた。「三国志」に登場する代表的な猪武者である。
数十年ぶりに吉川英治の「三国志」に当たってみた。「長坂橋(チョウハンキョウ)」の章に、単騎敵陣に突入し劉備の子供を救い出した趙雲 子龍と劉備 玄徳の劇的なやりとりが描かれている。次のように ―― 。
玄徳は思わず頬ずりした。あわれよくもこの珠の如きものに矢瘡(ヤキズ)ひとつ受けずにと……われを忘れて見入りかけたが、何思ったか、
「ええ、誰なと拾え」
と云いながら、
阿斗の体を、毬のように草むらへほうり投げた。
「あっ、何故に?」
と、趙雲も諸大将も、玄徳のこころをはかりかねて、泣きさけぶ公子を、大地からあわてて抱き取った。
「うるさい、」あっちへ連れて行け」
玄徳は云った。
さらにまた云った。
「思うに、趙雲のごとき股肱の臣は、またとこの世で得られるものではない。それをこの一小児のために、危うく戦死させるところであった。一子はまた生むも得られるが、良き国将はまたと得がたい。……それにここは戦場である。凡子の泣き声はなおさら凡父の気を弱めていかん。故にほうり投げたまでのことだ。諸将よ。わしの心を怪しんでくれるな」
「…………」
趙雲は、地に額をすりつけた。越えてきた百戦の苦も忘れて、この君のためには死んでもいいと胸に誓い直した。原書三国志の字句を借りれば、この勇将が涙をながして、(肝脳地にまみるとも、このご恩は報じ難し)
と、再拝して諸人の中へ退がったと記している。
なんとも古格然とした筆致で、ついつい読み耽ってしまった。さらに、曹操軍の追撃にたった一騎で対峙し撤退させた武勲に、劉備は「子龍は満身これ胆である」と讃えてもいる。つまりは趙雲、猪武者にあらず、ということだ。猪突はしても、勇が無鉄砲を凌駕したのだ。加えて、忠。まことに好漢の一語に尽きる。干支には似つかわしくない。が、似て非なる事情を略記することで賀状は切り抜けた。要領のいい便法である。
さらに想念は転じ、日本の猪武者に及んだ。 ―― 打って付けの人物がいた。
長州藩、来島(キジマ)又兵衛。と言うよりも、幕末の長州そのものが一藩あげての猪武者であった。その格好の一典型こそ、来島である。文字通り無鉄砲、無思慮、猪突の荒武者であった。
文久・元治・慶応。維新に至る四、五年間、時代は熱湯のごとく滾(タギ)る。文久3年、「八月十八日の政変」で京都を追われた長州。明くる元治元年、「池田屋事件」を機に長州軍は入京。免罪の直訴に及ぶ。聞き入れられる筈もなく、薩摩・会津を中軸とする幕府軍と干戈を交えることに。その渦中のことである。
来島 又兵衛 ―― 江戸遊学の後、藩の要職を歴任。激烈な尊攘の志士であった。高杉が奇兵隊を創設すると、彼は自ら遊撃隊を組織して互いに連携する。「八月十八日の政変」を受けて、京への出兵を頑強に主張。奸計を察知した高杉の制止を振り切って、諸隊を率いて上洛。蛤御門の変の導火線となる。
―― と、話がここまでくると、当然、司馬遼太郎であろう。
「世に棲む日日」は活写する。
―― 御亭(ゴテイ)は、いくさ狂いのお人にて。
と、この時期こぼしていたのは、来島の妻のおたけであった。来島は養子でこのおたけにだけは頭があがらず、こんどの一挙についても、「もうこんどだけで思い切る。この一挙がおわればあとは家でおとなしく暮らす」と、女房にいっていた。又兵衛は幕末よりも元亀天正の世にうまれてきたほうがずっと似つかわしい男であった。女房には「もうこれっきり」とおがむようにいっていたが、じつはかれはこの一挙で死ぬつもりだったらしく、出発命令を待ちつつ元治元(一八六四)年の元旦が明けたとき、
「この首をとるかとらるか今朝の春」
と、ぶきみな俳句をつくっている。来島はこのとき四十八歳で、いわゆる幕末の志士のなかではとびぬけて年嵩であった。(「暴発」から)
1600にすぎない長州軍が、十倍を超える鉄壁の幕府軍に突入する。凄まじい突撃だった。しかし優勢は一時(イットキ)、ついに敗走。洛中は3万戸を焼いて火の海となる。無謀というより、実態は自爆行為にすぎない。
薩軍の将は、西郷吉之助であった。西郷は、馬上の来島又兵衛さえ射ちおとせば長州兵は潰乱すると見、配下の川路利良(のちの初代警視総監)をよび、狙撃を命じた。
結局、又兵衛は胸を射ぬかれて落馬し、しばらく地を這っていたが、やがて槍の穂先を逆手にもってみずからののどを突いて死んだ。西郷のみたとおり、長州の潰走はこれからはじまった。(「灰燼」から)
幕末の長州は暴走に暴走を重ねる。なにがそうさせるのか。司馬遼太郎は語る。
「狂」
というものであろう。狂とは、イデオロギーへの殉教性というべきものであった。思想集団でなければこの大軍のなかに突入できるものではなく、突入すればむろん死が待っていた。淵源を松陰に発した思想の戦慄性が、長州人集団をここまで熱狂させるにいたった。人間はときに集団としての発狂を欲する動物なのかもしれないが、それにしてもその発狂のための昂奮剤は思想でなければならない。思想というものにこれほどまでの大昂奮を示したのは、日本史上こんにちにいたるまで幕末の長州人集団しか存在しない。(「灰燼」から)
「思想というものにこれほどまでの大昂奮を示し」、集団ヒステリーと化して暴発を繰り返した長州。猪突し、壮絶に果てた来島又兵衛。はたして、犬死にであったろうか。
「猪武者」集団は潰走するが、やがて維新回天の主軸へと転じていく。その後の展開を俯瞰したとき、又兵衛は確実に歴史の中のなにものかと刺し違えている。□