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周恩来ここに学ぶ・・・東亜予備高等学校跡碑

2019-04-12 18:49:03 | 日中

中国の周恩来氏と言ったら日本人で知らない方が少ないくらい日中間に影響を与えた人で、困難であった戦後の日中国交を成し遂げた人です。

以下文は周恩来・十九歳の東京日記・小学館文庫1999年、ウィキペディア等々を参考に記しています。異論が多々あると思いますが、素人の周恩来氏への思いです。

 

周恩来ここに学ぶ・・・東亜予備高等学校跡の碑は、東京都千代田区神保町の愛全公園内にあります。何故、この地に周恩来氏の碑があるかと言うと若きころ来日し、この地で多くを学んだと言われ、以後中国での両国の友好発展を込めた対日策に極めて大きな影響を与えたと思います。

 

周恩来(しゅう おんらい、1898年~1976年)氏は中華人民共和国建国1947年以来、77才で亡くなるまで首相(政務院総理・国務院総理)を務めています。文化大革命には反対で、これらの激動期を生き抜き、西側世界との国交を目指していました。

日本にとって忘れることが出来ない1972年・・・田中角栄首相と日中共同声明に調印したことでも有名です。妻は鄧穎氏、子女は孫維世氏(養女ですが文化大革命で迫害死)、李鵬氏(養子ですが、後の国務院総理です。)

1972年、米中国交正常化交渉を前進させ、アメリカ大統領ニクソンの訪中を実現させています。同年、日中のスポーツに理解を示し、ピンポン外交により訪中した内閣総理大臣・田中角栄氏と数度にわたる交渉に臨み、日中共同声明に調印、日本との国交正常化を実現しました。調印式で交わした田中角栄との固い握手とその写真は時代の象徴と有名です。

共同声明等の一部の要約・・・日中両国には様々な違いはあるが、小異を残して大同につき、合意に達することは可能である、わが国は日本に賠償を求めない。日本人民も我が国の人民と同じく軍国主義者の犠牲者である。賠償を請求すれば、同じ被害者である日本人民に払わせることになると話しています。

 

周恩来氏は中国・江蘇省淮安の官僚地主出身で13才となった1911年に辛亥革命勃発、翌1912年清朝が崩壊し中華民国建国、1913年天津の南開中学校入学、中学卒業後の1917年日本留学、日本語の習得不足で第一高等学校、東京高等師範学校受験に失敗し、東亜高等予備学校(日華同人共立・東亜高等予備学校)、東京神田区高等予備校(法政大学付属学校)、明治大学政治経済科(旧政学部・現政治経済学部)にて多感な時期に多くを学んでいます。日本で学んだ知識を更に中国で進化させたとも言えると思います。

勉学に励むと共に、友人と活発に交流し中国の将来について語り合い、日比谷公園、靖国神社、三越呉服店、浅草等を積極的に回っています。

特筆すべきは、1918年5月1日には靖国神社の大祭見物・・・それを見てはなはだ大きな感慨(心に深く感じること。)を催す(引き起こす。)と記しています。6月2日には游就館を訪れたことも記しています。

日本社会、日本人についてもよく観察しており、これらを理解することにより知日派としての基礎を作ったとも言われています。隣国・韓国等とは全く違う捉え方で、日本で学んだことによりファンダメンタル(基礎的な諸条件等)を正しい歴史観、世界観で捉えていると思います。

1972年の日中国交正常化後初の中国人留学生として来日した、知日派である程永華(2010年2月~2019年4月まで駐日中国大使)氏にも周恩来氏は大きな影響を与えたと思います。異論があるかも知れませんが、中国は共産国家ではありますが、これらの基礎的史観等で、今日世界から中国が大国と言われる所以(ゆえん)かも知れません。

1918年、留学生の一斉帰国運動も起きますが、即帰国せず冷静な対応をしていることが分かります。一旦中国に帰りますが、再来日・・・母校の南開学校が大学部を創設するということを知って帰国しています。

1920年パリ留学、労働党の研究のためにイギリスに渡り、エディンバラ大学に入学を許可されますが中国政府からの奨学金が下りずに断念しフランスに戻ります。その後、中国共産党フランス支部を組織、ヨーロッパ総支部が作られるとその書記となっています。この留学時代の仲間には李立三や鄧小平、陳毅、朱徳など後の中国共産党の幹部となった者が多数いました。

 

1919年4月5日、帰国のため船に乗る神戸に向かう途中、京都の嵐山に寄って歌った詩「雨中嵐山」は、嵐山(亀山公園)の周恩来記念碑に刻まれています。

正式には周恩来副総理詩碑で碑文は漢文ですが、日本語では次のように読むようです。

 

「雨中嵐山」

雨の中を二度嵐山に遊ぶ

両岸の青き松に、いく株かの桜まじる

道の尽きるやひときわ高き山見ゆ

流れ出る泉は緑に映え、石をめぐりて人を照らす

雨濛々(霧・煙・砂ぼこり・ 湯気などが一面に立ちこめるさま)として霧深く

陽の光雲間より射して、いよいよなまめかし

世のもろもろの真理は、求めるほどに模糊(はっきりしない様)とするも、模糊の中にたまさかに一点の光明を見出せば、真(まこと)にいよいよ、なまめかし(みずみずしい)。

日本・京都、1919年4月5日

 

上記の碑は1978年8月、日中平和友好条約が調印され、この条約調印を永遠に記念し子々孫々にわたる友好を願う心を表わしたいという声が巻き起こり、京都にゆかりの深い、日中両国友好のために尽された周恩来総理の詩碑を建立しようという運びに至り建立されています。

当地では有名な筋金入りのマルクス主義者、河上肇の著書で初めてマルクス主義に触れ、京都大学でその講義を聴講しています。

1919年4月帰国、南開大学文学部入学、その直後に中国近代史の起点となる五・四運動(1919年パリ講和会議・ベルサイユ条約の結果に不満を抱き発生した中華民国の北京から全国に広がった抗日、反帝国主義を掲げる大衆運動)が起き、周恩来氏は学生運動リーダーで頭角を現しています。

日本滞在中の様子は、周恩来・19才の東京日記が詳細に記録しています。

 

記念の植樹としては東京都八王寺市内の創価大学には、周桜と呼ばれる桜があります。故周恩来総理を記念するために植えられたものだそうです。

周恩来氏は1972年に膀胱癌が発見されましたが、その後も休むことなく職務を続けましたが、病状は悪化の一途をたどったようです。周恩来氏を研究していた研究者の疹心文氏によれば、病に倒れてから何時の日か何処かに行けるなら日本に行きたいとの希望を持っていたとも言われています。日本に対する思いを垣間見ることが出来ます。

日中には理不尽な難問等々が山積していますが隣国・韓国等と違い、毛沢東、鄧小平、習近平氏等の中国共産党・歴代最高指導者は天皇の歴史、権威を理解し、天皇を擁する日本の本質を理解しているのは間違いないと思います。

日本に対する厳しい策は今後も変わらないと思いますが周恩来氏同様、物心とも理解する努力をされている知日派の人達は、日中の理不尽な難問等々にも良い知恵を出すと思います。

 

周恩来氏の名言

若者が何度かつまずいたり、障害にぶつかったりしない者はいない。
これらの難問にぶつかっても落胆してはならない。
一番苦しい時でも、気を落としてはならない。
前進を続ける気概をもて、勇気をもて。
希望の光が、我々を照らしている。

私達は経験ばかりから学ぶことなく、正しい世界、歴史観を学ぶことは未来の日中関係をより確かなものにすると思います。

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