極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

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日中戦争の一側面

2017-08-12 09:27:00 | 日中

以下文は、毛沢東・竹内実(翻訳)、 毛沢東語録(平凡社ライブラリー)、平尾治・或る特種情報機関長の手記・我が青春のひととき・1987年、ウィキペデア、李大倫著の「毛沢東は日本の侵略に感謝する」講話の由来、日本新華僑報等々を参考にしています。

意味不明文等多いかと思いますが、まとまりが無い散文、日記程度の内容です。

今でも中国(一部の日本人も)では、日本は過去中国を侵略したから謝れと言いますが、真相・真実の一部を知ることは両国民にとっても大切だと思います。

 

北京の南にある盧溝河(ろきょうがわ)に架かる橋が盧溝橋(ろこうきょう)・・・1192年完成、全長266.5m、11幅のアーチからなり、各アーチは長さ11m、橋の欄干にはそれぞれが異なる表情や姿をした計501基の獅子の彫像が置かれています。かつてこの地を訪れたマルコ・ポーロは著書・東方見聞録で、この橋が世界中どこを探しても匹敵するものがないほどの見事さと記しています。

昭和12年7月7日夜半、盧溝橋の近くに駐屯していた日本軍は夜間演習を行っていましたが、突如、暗闇から日本、国民党両軍は実弾銃撃を受けました。日本軍駐屯地付近には、国民党軍(蒋介石軍)も駐屯していました。

日本軍は銃撃は国民党軍によるものと思いこみ、国民党軍は日本軍の銃撃と思い、両軍の武力衝突が起こりました、これが盧溝橋事件です。現在でも中国が事ある毎に、日本軍国主義の歴史的事実として引っ張り出しますが、日本軍が仕掛けたものでは無いと言えそうです。 

この事件を契機として、日本は広大な支那大陸を舞台に、昭和20年8月15日の終戦迄、日中戦争と呼ばれる終わる事の無い戦争の泥沼へと引きずり込まれていきました。中国の裏には蒋介石を支援する国、組織が存在し、日本の泥沼化の主因となったようです。

日本軍が最初に銃撃を受けた時、日本軍は実弾を携行していませんでした。橋本群・陸軍中将(駐屯軍参謀長)は当時の状況を実弾を持たずに発砲された為、応戦出来ず、非常に危険な状況に置かれたと証言しています。空砲の他に、万が一の場合に備えて各自実砲30発を携帯していましたが実砲は厳重に包装され、間違っても使用できない状態になっていました。(木綿糸でグルグル巻きしていました。)
空砲による演習は中国側に予告する必要はありませんでしたが、中国側の特別の希望により、当日の夜間演習は4日に通告してありました。更に同中隊はその夜の演習に鉄帽さえ携行していませんでした。 

 

じゃ、盧溝橋で先に銃撃したのは?

事件当時、記録では国民党軍も日本軍同様、銃撃を受け、国民党軍は日本軍によって銃撃を受けたものと思い込んでいます。

この事件が発端となって、日本軍と国民党軍は交戦状態に突入したのですが、やはり双方共、腑に落ちない点が多々あり、現地解決、事件不拡大方針で交渉し発生後5日目に、日支両軍は停戦協定を結びました。日本軍はこれ以上、事を荒立てたく無い、支那との全面戦争等、最初から欲していなかった状況が分かります。

 

日本軍・国民党軍双方に銃撃を加え、双方を戦わせる様にし向けたのは、一体誰か?

以下文は、「平尾治・或る特種情報機関長の手記」・我が青春のひととき・1987年

天津の支那駐屯軍司令部内設置の特種(ママ)情報班は、無線による情報収集に任じていました。その一通信手は、蘆溝橋事件が発生した7月7日の深夜、北京大学構内と思われる通信所より延安の中共軍司令部の電台に対し、緊急無線により、平文(ヒラブン)の明碼(ミンマー)(秘密でない電信の数字番号、中国では数字を用いて送信)で、「2052 0501 0055」(成功了――うまくいった――)」と三回連続して反復送信しているのを傍受しました。該通信所よりの送信者、送信の情報源及び情報経路等は不明ですが、その情報源の関係者は、前述の7日午後10時40分頃の第8中隊仮設敵の空包発射と同中隊後方からの中国軍の実弾発砲とをもって、日中両軍を衝突させることに成功・

 

支那事変勃発直後(8月22日)

毛沢東、「中共中央の陕北洛川での政治局拡大会議・指示」
冷静になれ。前線に出て抗日英雄に充当させられるな。日本との正面衝突を避け、日本軍の後方に回って遊撃戦に出ろ。
八路軍(国民党軍の中に送り込んだ中国共産党軍の名前)を拡充させるため抗日遊撃拠点を構築しろ。
あらゆる手段を用いて我が党の武装力を蓄積し、拡大しろ。
政府から前線に赴けとの命令が来たら、さまざまな言い訳をして引き伸ばせ。
日本軍が大々的に国軍(国民党軍)を殺傷して初めて、我々には抗日効果が転がり落ち、国民党から政権を奪取することができるのだ。

我々中国共産党員は必ず、国民党と日本人との殺し合いと言う天が与えた機会に乗じ、日本の中国占領と言うすばらしい時機に乗じて自己を発展させ、抗日戦争の勝利後は、疲れ果てた国民党を打倒して、必ず全中国を手中に収めなければならない。

我々共産党員の方針は、日本軍に多くの土地を占領させ、蒋介石、日本、我々の三国志を現出させることだ。
これは我々には有利な形勢だ。
我々が厳格に遵守しなければならない方針は、「(力の)一分は抗日、二分はいい加減にあしらう、七分は発展、そして十分は宣伝」である。
いかなる者、いかなる組織もこの総体的方針に違反してはならない。

戦後、日中多くの方々の真相を知りたいと言う研究者の努力があり、一定の結論を得ています。やはり、戦いを好くする人達が戦いを仕向けてたと言うことが出来ます。

 

盧溝橋事件で避けて通れない人物!劉少奇!中国共産党の後ろに見え隠れする黒幕!

毛沢東の次に位置する劉少奇(りゅう しょうき)は、中華人民共和国の政治家、第2代中華人民共和国主席(国家主席)などを務め、中国共産党での序列は毛沢東党主席に次ぐ第2位でした、文化大革命の中で失脚しています。

当時の「劉少奇」がこの日本、国民党両軍に対する攻撃部隊の共産党軍を企画指揮したと思うのが自然と言えそうです。

答えを得るために、特に精査する必要がある援蒋ルート(香港方面、ビルマ、仏領インドシナの3つがありますが、仏領インドシナ領ルートは50%以上の物資を運んでおり、日本の仏領インドシナ進駐の主因となったようです。)の背後は何処の国?、組織?・・・当時の状況、記録、言い伝えが中国等々に存在、特に当時の劉少奇の周辺、動きを精査したら意外な一面が出てきます。現代の北朝鮮問題の黒幕・・・

現在は審陽市沈河区、中国特有マンション在住、張兵武氏、当時の劉少奇の警備隊長でした晩年の細部まで知っています。

両国の戦争を好くした両国以外の人達がいたと言うことが言えそうです。

内外の文献等々で援蒋ルートの細部を知ることは日中戦争の真相を知ることになるかも知れません。

1969年11月12日、劉少奇は失脚後は常に監視、自由を奪われ、中国内のスファラディー・ユダヤ人の町、河南省開封で妻、家族、身内に看取られることなく、監視人のもとで、世への深い恨みの辞世の句を残し亡くなりました。

劉少奇は、聖書に出てくる生粋の血統的スファラディー・ユダヤ人で、時の支配者に利用されたと言えるかも知れません。

 

これらの事実を調べると、現共産党中国に日本は本当に謝る必要があるのか、対中戦で戦ったのは国民党軍だったはずです、素人ながら疑問が残ります。 

過去、村山富市・元首相は当地を訪問した時、盧溝橋で往事を反省してきた等、可笑しな発言をしています。この発言は後世日中間に楔を打ったように思えますし、両国の未来にとって極めて不幸な発言だったと思います。

私達が学んだ盧溝橋事件とはかなり違います。 日本は盧溝橋事件の当事者でないことは明白です。

 

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