プーチン大統領はロシアの母の日にあたる11月27日を2日後に控え、軍兵士の息子を持つ母親たちと面談を行っています。ロシア大統領室は11月25日、モスクワ郊外ノボオガリョボの大統領公邸でプーチン大統領が参戦軍人の母親約17人との懇談会を開いています。
以下文はロシア大統領府の正式公開記録文(懇談部分は一部のみ記しています)です。素人の訳文ですので、可笑しな箇所があるかも知れません、その箇所はスルーして下さい。
この正式公開文では、私達が得る報道内容とは違い、政府と国民の思いの一部を知ることが出来ます。根底が反ロシアである欧米、日本の報道内容とは違う面が多くあります。
原文 ↓
Встреча с матерями военнослужащих – участников СВО • Президент России (kremlin.ru)
会談
プーチン大統領・・・こんにちは。
ご存知のように明後日はロシアでは母の日です。この日は豪華な盛大なお祝いではなく、特別な日で心のこもった暖かい日でもあります。
ロシアのすべての人々は母親への尊敬、賞賛をしていることを私は覚えています。私はあなた方だけでなく、他の多くの女性にも理解をしています。
多くの息子、子供さんがウクライナで戦ってるロシアでは、この母の日に対するものは特別なお祝いのものではありませんが、おそらく、あなた方が息子、子供さんに何が起こっているかについて考えるとき、不安と心配でしょう。
母親にとって息子、子供さんの年令に関係なく、常に息子、子供さんであり、ここにいて息子、子供さんを亡くされた皆さんも含めて、これは悲劇でもあります。
あなた方は私が哀悼の意を表す正式な言葉を言う心を持っていないと思われるかも知れません。国の指導者、国民全員と私はあなた方の痛みを共有しています。私たちは息子、子供さんの喪失に代わるものは何もないことを理解しています。私たちが命を負い、産み、養った母親です。私たちがこの痛みをあなたと共有していることを是非知ってほしいです。
もちろん、私たちはあなた方が忘れられていると感じないように、具体的なサポートを行い最善を尽くします。
人生はテレビ画面やインターネットに表示されるものよりも複雑で多様です。インターネットはさまざまな偽の話、欺瞞、嘘でいっぱいであるため、インターネットを完全に信頼するべきではありません。情報は現代世界では単なる別の攻撃兵器であり、情報攻撃は単なる別の効果的なタイプの闘争であるため、インターネットは情報攻撃に満ちています。
私たちは今日、ここに集まりましたが、私はあなた方の意見、要望直接の評価を聞きたかったのでこの会議を提案しました。
あなた方も多くの情報を受け取っていると思います。私はさまざまな情報源から多くの情報を受け取りますが、あなた方の評価、あなたの意見、アイデア、提案等は大変意味あることです。
今日、議論することは、すべてのことが考慮され実際の生活で生かされ使用されるようにします。それが私が最初に言いたかったことです。
最後に、挨拶として私がずっと話してきたことを申し上げたいと思います。
先ず、第一に家族はすべての源であることです。
あなた方の息子、子供さんの多くがノヴォロシア(新ロシア)やドンバスの人々を含む私たちを守り、保護するために故郷、祖国のロシアに仕え、守ることを決意したという崇高な事実も間違いない事実で結果です。
これは、勧めや道徳的な警告の結果ではありません。結果として、これはあなた方の個人的な結果でもあり、これは常にそうなるでしょう。
何を言おうと、これは非常に重要で、このような例は、その人の自己認識、基本的価値観の基礎に影響を与えます。個人的な例は、教育と育成の主な、最も重要で最も基本的なものです。
あなた方の息子、子供さんの英雄的な行動を考えると、私はこの側面を正確に議論したかったのです。もちろん、これはあなた方のロシアに対する献身的な多大な貢献にほかなりません。
これはあなた方の献身的な貢献であり、あなたの息子、子供さん、あなた方の夫の献身的な貢献でもあります。
これはすべての家族において、常に両面のプロセスで彼らが本当のヒーローであることを知っています。
これは、彼らとその直属の上司を除いて、誰もがこの任務がどれほど困難で難しいか、そして自分の生命、健康へのリスクがどれほど危険であるかを知らないからです。彼らだけがこれを感じ、気づきます。
時々、私は彼らと話しますが彼らの何人かと直接電話で話しました。いずれにしても、任務に対する姿勢を話しました。
彼らは私が電話することを期待していませんでしたし、これらの電話は母親に伝えています。これは、彼らが英雄であると言う、何よりの理由となります。これが私が最初に言いたかったことです。
自由な議論をしましょう。
すでに述べたように、私はあなた方が今日発言した全てに耳を傾け、善処します。
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スナ・ナビエワ・・・私はスナ・ナビエワです ダゲスタン。
私の息子、エンヴェルはカザン高等戦車司令部学校を卒業、ブリヤート共和国で奉仕しています。彼は最初の日からSMOの一員で、二度負傷、そして病院に滞在しました。回復すると、自分の部隊に戻りました。
電話で話すこともあります。 私が大統領に会うつもりだと知ったとき、私に敬意を送るように頼みました。息子のすべての仲間、軍人はやるべきことを、すべてをやるだろうと言いました。
私の祖父と2人の曽祖父は大祖国を戦いました。私は彼らを失望させることはできません。最前線にいる兵士もしばしば、彼らの祖父を思い出すでしょう。
彼らは全国から、さまざまな場所から来ています。私はラク人です、私はダゲスタニ人です、私はチェチェン人です。 イングーシ語、ロシア語、タタール語...ダゲスタンの人々は、この戦いは正しいことですと言います。
私たちの家族は山村から来ています、アフティンスキー地区のジャバです。私たちには大規模な多民族の家族がいます。
私の義母は母ヒロインで、彼女には12人の子供がおり感謝しています。マザーヒロインの高い称号を受けてとても光栄です。これは非常に重要で、ダゲスタンとロシアの母親のためにも。
プーチン大統領
ナビエワさん、まず、 息子さんからのお言葉ありがとうございます。私は最初から、私たちの部下に彼らの戦い、彼らの義務の遂行に対する国の態度に関する最も正確で客観的な情報を与えるように頼みました。
彼らもこの会議を見てほしいと思います。現代の技術がそれを可能にします。もちろん、無線通信はには特定のリスク、制限がある理由ですが、彼らはそれを聞くでしょうし、それについては間違いありません。私は彼らに母親の現況を見てもらいたいです。
息子の要求と挨拶は感謝して受け入れられます。私としては、息子と軍隊の仲間に最善を尽くします。
スナ・ナビエワさん、ありがとうございます。
プーチン大統領・・・いつ卒業しましたか コマンドスクールからですか?
スナ・ナビエワ・・・2010年です。
プーチン大統領・・・息子さんは困難で厳しい任務を遂行していると確信しています。これはすべてのロシアの兵士にとって当然のことであり、コーカサス、ダゲスタンの戦士にとってはなおさらです。
これらの人々は特別な文字を使用していることを、私は知っていますし、ダゲスタンでは1999年からイベントが行われており、イベントに関連する日決を私は忘れていません。
ダゲスタンは多民族共和国です。ロシアは全体として異なる民族の人々がいるユニークな文化を有していますし、さまざまな宗教が共存しています。ユニークな特徴は何百年にもわたる共存の中で、人々は共通のものを見つけただけではありません、言語だけでなく、お互いの伝統や宗教を尊重することを学びました。一緒に休日を祝い、試練の時を克服することを学びました。それらを全て書くことは不可能で、これがどのような意味であるかを知っています。
私は人々が自分自身を分割しないことを知っていますし、カーストまたは民族グループは、すべてが平等で、すべてが互いに助け合い、生活はこの相互扶助と支援に依存していることに気づきます。これは非常に重要な点です。彼らはやるべき任務・義務を果たしています。
どうもありがとうございました、あなたの息子さんに感謝します。
息子さんと戦友にも敬意を表してください。スナ・ナビエワさんありがとうございました。
ニーナ・プシェニチキナ・・・大統領、私はルガンスク人民共和国のキロフスクの小さな街出身で、街は最前線にありますが、私たちは戦っています。私たちはロシア連邦のおかげですべてを復元してもらっています。私たちはイルクーツク地域の後援で、現在55の施設を修復しています。 最近、知事が私たち図書館、学校を訪問した時、私はここにいました。
今となっては常識ですが、9月30日、 私たちは素晴らしい、輝かしいイベントを持ちました。私たちはロシア連邦の地域になりました。
私の息子が2014年に武装したボランティア部隊に加わったとき、彼は私に言いました。「お母さん、私はロシアのため、世界のために戦うつもりです。この地域で禁止されているロシア語を使用できるように戦うつもりです。」
私の父は1941年から1945年まで戦争で戦い、勝利を持って家に帰りました。
私たちは、このロシア編入イベントを長い間待っていました。それは上り坂の連続でした。大切な多くの人々を失いましたが、私たちはロシアにいるという希望を失いませんでした。家に帰ったら、このロシア編入イベントが行われていました。
しかし、私の息子、コンスタンティン・プシェニチキンは、街を守る戦いで朝、亡くなりました。たまたま敵が来た時、塹壕から飛び出した時殺害されました。
最後の言葉は、「みんな、ウキーを切り刻みに行きましょう」でした。死後、勇気を称えメダルを授与されました。
私は、心が痛み、魂は凍りつき、暗い思い出は私の心を一杯にしていますし、目は涙でいっぱいです。
突然、息子は 「お母さん、悲しまないでください、私たちはお互いに会えます。私たちの住む町で次の人生で、私たちは再び一緒になるでしょう。」
以後、私は顔を上げて肩をまっすぐにし、殺された民兵の家族を助けるためにできる限りのことをし始めました。彼らのために市民会議所のメンバーとなりました。
私は最初の2つの国民投票の組織化を手伝いました。
2回目の国民投票の間、私は選挙委員会のメンバーで、これまで誰もそのような熱意を見たことがありませんでした。
老婆は旗を持って来て歌を歌いました。「私たちはあなたのところに来ます。」「自主的に私たちは自分たちでここに来ました。そして、プーチン大統領に感謝をして下さい。」
彼らは、私たち選挙委員会がプーチン大統領の使節だと信じています。私は伝聞からではなく、すべてを知っています。
以後・・・参加者全員の率直な会議、答弁となりますが、日本と違い、明確な答弁、対応がなされています。