「二元論」 (3)のつづきの続き

2021-02-21 18:40:01 | 「二元論」

         「二元論」


          (3)のつづきの続き

 

 そもそも一般に「何であるか?」を問うということは「問われて

いるもの」「問いただされていることがら」そして「問いかけられ

るもの」の三つの要素からなる。ここで「《存在》とは何であるか

?」と問う場合、「問われているもの」は《存在》で、「問いただ

されていることがら」は《存在》の意味であり、「問いかけられる

もの」は人間にほかならない。ところで、「何であるか?」を問う

者は当然その答えの意味を理解できる者でなければならない。そう

でないと、問いかける人間の理解能力を超えた《存在》の意味は理

解され得ない。だとすれば「何であるか?」と問う者の理解能力に

問うことの意味は規定される。人間にとっての《存在》の意味は人

間の理解能力が受け入れられるものでなければ意味をなさない。も

しも、《存在の意味》がどれほど真実だとしても、人間がその意味

を理解する能力を持っていないとすれば「無意味」である。だとす

れば、「《存在》とは何であるか?」を問うことは、『人間にとっ

ての』「《存在》とは何であるか?」』を問うことにほかならない。

つまり、その答えがどうであれ人間が《存在》をどう理解するかに

よって《存在》の意味は変わることになる。ハイデガーは「現存在

(人間)が存在を了解する時にのみ、存在はある」と言い、木田元は「

前期のハイデガーは〈現存在(人間)が存在了解を規定する〉と考えて

いた、と言ってよいかもしれない。」(木田元「ハイデガーの思想」)

と述べている。ところで、〈人間が存在了解を規定する〉ということ

は、人間が世界を作り変えてもいいことになる。

                        (つづく)


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