「二元論」(3)

2021-02-12 04:15:28 | 「二元論」

         「二元論」


           (3)


 哲学者ハイデガーの研究者として知られる故木田元氏(1928

年~2014年)によると、ハイデガーは自著「存在と時間」の上

巻を刊行した後に思想的転回を余儀なくされて予定されていた下巻

の刊行を取り止めた。私はそれまでニーチェのアフォリズムを暇つ

ぶし程度に読んでいたが、しかしハイデガーにはあまり良い印象を

持っていなかったことから、それはもちろん彼がナチスの支持者で

あったからで、ところが、木田氏が著した「ハイデガーの思想」を

読んでハイデガーによる「ニーチェ」の講義が書籍化されているこ

とを知って、また木田氏があまりにも絶賛するので取り寄せて読ん

だ。実際、これはすごかった。あのニーチェが一足飛びで駆った足

跡を丁寧に解説しながら辿ってニーチェについてこれほどまでにも

判り易く書かれた本はなかった。付け加えると、あの難解なハイデ

ガーの言語を見事に和訳してみせた細谷貞雄氏をはじめとする翻訳

家の人々を称えない訳にはいかない。本に戻ると、なるほどこれほ

どまでもニーチェ思想の影響を受けた者だからこそナチスの過激思

想に加担することにもさしたる疑いを抱かなかったのかもしれない。

 さて、その木田元氏の「ハイデガーの思想」によると、ハイデガ

ーの思想的転回(ケ―レ)の原因は《存在》そのものの捉え方(存在了

解)を改めざるを得なかったからだと言うのだ。

木田元氏は著書「ハイデガーの思想」(岩波新書268)の中で

ハイデガーが思想的転回(ケ―レ)を余儀なくされた経緯を推察して

書いていますが、それによると、「ハイデガーは人間を本来性に立

ちかえらせ、本来的時間性にもとづく新たな存在概念、あそらくは

〈存在=生成〉という存在概念を構成し、もう一度自然を生きて生

成するものとして見るような自然観を復権することによって、明ら

かにゆきづまりにきている近代ヨーロッパの人間中心主義文化をく

つがえそうと企てていたのである。」これだけ読むとりっぱな文明

批判で自然に帰れと言ってるとしか思えないですが、いくつか補足

すると、科学技術は「自然は制作のための単なる〈材料・質料〉」

と看做し、「〈存在=現前性=被制作性〉というアリストテレス以

来の伝統的存在概念は、ハイデガーの考えでは、非本来的な時間性

を場としておこなわれる存在了解に由来する。」つまり、われわれ

が自然と向き合う時に、われわれは本来的な時間性の場である「自

然=内=存在」として存在するのか、それとも「自然は制作のため

の単なる〈材料・質料〉」としか見れないとすれば、われわれは非

本来的な時間性を場とする自然の外へ一歩踏み出すことになる。

 そもそも一般に「何であるか?」を問うということは「問われて

いるもの」「問いただされていることがら」そして「問いかけられ

るもの」の三つの要素からなる。ここで「《存在》とは何であるか

?」と問う場合、「問われているもの」は《存在》で、「問いただ

されていることがら」は《存在》の意味であり、「問いかけられる

もの」は人間にほかならない。ところで、「何であるか?」を問う

者は当然その答えの意味を理解できる者でなければならない。そう

でないと、問いかける人間の理解能力を超えた《存在》の意味は理

解され得ない。だとすれば「何であるか?」と問う者の理解能力に

問うことの意味は規定される。人間にとっての《存在》の意味は人

間の理解能力が受け入れられるものでなければ意味をなさない。も

しも、《存在の意味》がどれほど真実だとしても、人間がその意味

を理解する能力を持っていないとすれば「無意味」である。だとす

れば、「《存在》とは何であるか?」を問うことは、『人間にとっ

ての』「《存在》とは何であるか?」』を問うことにほかならない。

つまり、その答えがどうであれ人間が《存在》をどう理解するかに

よって《存在》の意味は変わることになる。ハイデガーは「現存在

(人間)が存在を了解する時にのみ、存在はある」と言い、木田元は「

前期のハイデガーは〈現存在(人間)が存在了解を規定する〉と考えて

いた、と言ってよいかもしれない。」(木田元「ハイデガーの思想」)

と述べている。ところで、〈人間が存在了解を規定する〉ということ

は、人間が世界を作り変えてもいいことになる。

ところで、私もこれまで幾度か使いましたが、ハイデガーは人

間という言葉を避けて「現存在(Dasein)」と言い換えます。それ

は、おそらく生きている人間はいまは「存在している」が、

いずれ死んで存在しなくなるからだと思います。そもそもハイデ

ガーは、現象学的存在論として「存在と時間」を書き始めました

が、上に述べたように、まず、その準備として「問いかけられて

いる」現存在とは「何であるか?」を確認するために「現存在の

準備的な基礎分析」及び「現存在と時間性」を発表したあと、そ

れだけで優に1000ページはあるが、続刊が予定されていた本

論である存在論は出版されずに終わった。そのため「存在と時間」

は当時隆興してきた実存論と誤解されたが、彼は存在論だと主張

している。

 では、「存在とは何であるか?」を思惟する現存在とは何であ

るかといえば、現存在を規定する絶対的な現象は「死」であり、

「死」は現存在の存在の限界を意味します。自らが限られた存在

でしかないことを認識した現存在は現前の日常に流されるだけの

「頽落」した生活を改めて存在することの本来性、つまり「先駆

的覚悟性」(ハイデガー) に目覚め、それは「死」がもたらす限ら

れた《時間性》(テンポラリテ―ト)によって現存在を本来性へと

覚醒させる。つまり、「テンポラリテ―ト」とはあくまでも現存

在だけに関わる概念にほかならない。

                        (つづく)