(五十七)

2012-07-11 09:29:40 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(五十六
                  (五十七)

 銀座近くへは乗り換え無しで行けた。昼過ぎにも関わらず電車

は込んでいた。ドアに張り付いて早送りされた風景を眺めていた

が、ドアのガラス越しに見える都心の変貌に驚いた。まるで、古

いテレビを大型画面に買い替えるかの様に、それまでのビルが壊

されて高層ビルに建て替わっていた。東京は変わり続ける事で、

人々に何らかの希望を与えているのかもしれない。日々変貌する

この街で、いつか自分にも思いもよらない幸運が舞い込むかもし

れないと、そんな儚い想いを抱いて人が集まって来るのだろうか

?地方の衰退が取沙汰され東京への一極集中が問題になって

いるが、もちろん政治にも責任があるのだろう。しかし、この国の

人々は、天地開闢(てんちかいびょう)の初めより、女王蟻の住む

都への強い憧れを禁じ得ないのだ。それは中国の中華思想を笑

えない位にアジア民族共通の習性ではないのか。つまり、地方

分権などと言っても、本当に地方は身に巻いた長いものを棄てて

自立する気があるのだろうか。地方分権をすれば更に東京への

集中が加速されることにならないだろうか。

 北朝鮮をネガティブなモデルとしてわが国と比べて見ると、権

力者の居る平壌だけが繁栄して、権力から遠ざかるに従って地

方は疲弊する姿は、この国とそんなに変わらないんじゃないかと

思うことがある。もちろん、経済力の違いは雲泥の差ではあるけ

れど、今後アメリカの支えを失ったわが国が、たとえ逆境の中で

も、デモクラシーを失わずに自立して、苦しみを共有する社会を築

くことが出来るのか不安になる。私が恐れているのは、アメリカ

のプレゼンスが失われていくことよりも、我々のデモクラシーのモ

デルが失われていくことだ。気が付けばアジア民族の習性が蘇り

、北朝鮮と変わらないじゃん、ってことに為らなければいいが。北

朝鮮の独裁政治は、権力者の横暴を許した国民にその責任の大

半がある。それでは、わが国はと言えば、先の敗戦の責任を権力

者や指導者に被せて、まるで国民はその犠牲者であるかのように

言うが、その権力者を選び支持し、その判断に従ったのは国民で

はないか。つまり、あの戦争の責任をまず負うべきは国民なのだ。

もちろん、国民は多くの命を犠牲にしてその責任を取らされた。では

何故、そうまでして国民は権力者の判断に従ったのか?何故、国

民は抗うことが出来なかったのか?何故、間違っていると言えな

かったのか?私は北朝鮮の政治が遠い国のことだとは思えない。

 ただ、いかなる国家も国民の下(もと)に在ることを忘れずに

いよう。その国の政治はその国民が選び、その責任は国民が負う

ことになるのだから。

 やがて電車は混雑するホームに入り、私はドアが開くと同時に

大勢の降客に押し出されて電車を降りた。

                                 (つづく)


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