(九)

2012-07-11 06:08:46 | ゆーさんの「パソ街!」(六)―(十)
                  (九)



 農家の朝は早い。野菜の収穫出荷が始まると、都会の人が一日を

終えて漸く睡魔に両肩をマットに押し付けられた頃、我々は目覚ま

し時計のカウントを止めようと寝返って肩を上げる。しばらく夢と

現(うつつ)の間を寄せては返す波のように揺らいでいると、ひとの

一生に占める睡眠時間というのは、もしかして決まっているのでは

ないかとぼんやり思った。例えば、ナポレオンのように若い頃に眠

らないでいると、運命が、不足した睡眠を埋め合わせようとして、

彼をセント・ヘレナ島へ幽閉させ、寝てばかりの毎日を送らせたの

ではないか。ひとの一生と睡眠時間との間には何か一定の相関が成

り立つのではないだろうか。だから無理をして眠らずにいるとその

バランスを欠いて一生眠ることになってしまう。自然循環に拘り始

めると、ひとつの作用は必ずひとつの反作用を生むと思うようにな

る。睡眠に関してもその反作用は人生に現れるに違いない。その仮

説は微睡(まどろ)む自分にとっては都合の良い言い訳になった。そ

れから反対側に寝返りを打つと穢れのない眠りに落ちていった。

「お父さん!何時まで寝てんのん!」

わたしの罪のない眠りはミコの甲高い声によって穢された。きっと、

わたしの寿命はこの至福の睡眠を失ったことで相当縮まったに違い

ないと思いながら四角いリングを後にした。

 都会の人々が睡魔の追跡を脱兎の如く逃れながら、ただタイムカ

ードを押すためだけに出勤して、ところが自分の椅子に座った途端

に捕まってしまい、睡魔に身を預ける覚悟を決めて仕事にならない

まま正午の折り返しを迎える頃、我々は宛(さなが)ら亀のように這

い蹲(つくば)って働いて一日の作業を終える。身体を使った労働は

迷いのない深い睡眠をもたらし、再び動く為の力を蓄えようとする。

睡眠や食事はは良く動く為の手段である。睡眠と活動と食事のバラ

ンスの取れた循環が「自ら動く生き物」本来の姿ならば、「進化し

た」都会で暮らす人々は本来の姿から何と「退化した」生き物に堕

落したことか。何故なら、彼等は、動かない生活を望んでおり、そ

の結果、運動不足による肥満と睡眠不足による倦怠に悩まされ、今

では、良く動く為に眠るのではなく、良く眠る為に生産を伴わない

運動をしなけれならないのだ。何と倒錯した生活であるか。便利で

安楽な暮らしは動く必要がなくなり、やがて睡眠と運動の境が失わ

れ、睡眠不足と運動不足が日常化し、起きていても睡魔の呪縛から

逃れられず、寝ていても妄想が邪魔をする。それは便利な生活を望

んで「自ら動く物」としての自立した身体を退化させた証ではない

か。自らの意思で動くことは動物が手にした輝かしい宿命ではなか

ったか。やがて、道具に頼った退化した身体は繊細な感覚を失って

判断力を低下させ、創造性を欠いた怠惰な思考が「近代文明の終焉」

をもたらすに違いない。

 農作業は専らお天道様任せで、例えば、世が白み始めても惰眠を

貪るなどといった「もったいない」生活は出来なくなる。自然循環

の中で暮らし始めると、日の出前に起き日没後に眠るということが

至極当然になる。都会の檻から逃げ出して自然に戻ったわたし達は、

生きることはこんなにも空を確かめることだとはここで暮らすまで

終ぞ思わなかった。つまり、都会には壁ばかりあって空はなかった。

「お父ちゃん、私、こんばん家(うち)で寝えへんで」

ミコが晩ごはんの支度をしながら、突然そう言った。わたしは遂に

来たかと思って、あっ慌てた。

「なっなっなっなっ何でや?!」

すると、ミコは冷静に、

「お父ちゃん、いつもより『な』が一個多い」

「あほっ!ビックリさせるさかいや」

「実は、バロックと一緒に星見るねん」

「ほし?」

するとバロックが、

「ほらっ、きょう新月なんですよ、雲もないし」

「スカイツリーハウス」が出来た時からミコはそこから星を見てみ

たいと言っていたが、バロックがそれなら新月の今夜ということに

なったらしい。わたしは若い二人がただ星を見るだけで済むとは思

わなかった。

「せやから、いつもより早よごはんにするわ」

わたしは冷静を装って普段の会話に戻った。

「何するんや」

自給自足に近い生活をする者は「何が食べたい」とは決して言わな

い、言っても食べられないから。まず、畑に何ができているかを見

て、それからどんな料理が作れるか考える。もちろん我が家には冷

蔵庫もあるし、何もかも自給しているわけではない。どうしても食

べたければ取り寄せることだって出来る。実際、調味料などは流通

する商品を買っている。しかし、堂々とオーガニックを謳いながら

ミコが体調を壊した怪しい商品は幾らだってある。だったら勢い自

分たちで作ることになって、今ではお茶はもちろん味噌や醤油に至

るまでも、ミコが昔からここで暮らす婆さん達に教えてもらって作

り始めた。彼女は買うものだとばかり思っていたものが自分で作れ

ることを知って、「面白い」と言った。

「素麺」

「あっ、手抜きや」

「違う!手延べや」

さすがに素麺までは自家製ではなかったが、添える天ぷらの野菜を

油に潜らせる音がして、すぐに小麦粉が衣に変わる香ばしい匂いが

部屋中に広がった。

「お父ちゃんも来る?」

ごはんの最中にミコが思い出したようにわたしに聞いた。その聞き

方は如何にも来ないことを確かめようとしていた。すると、バロッ

クが、

「せや、ゆーさんも一緒に見いひん?」

「あかんわ、帳簿付けな、溜まっとんのや」

「お父ちゃん、言うてたもんな、あんなとこに上ったかってナンボ

も変わらへんって」

「あほっ、言うな!」

「いや、ほんと、ただ、ちょっと視界が広がるくらいのもんやわ」

バロックがわたしが陰で言ったことを弁護してくれた。わたしは、

夕飯を済ましたテーブルにワザとらしく帳簿を持ってきて、然も忙

しそうに演じたが、帳簿の数字など全く頭の中に入らなかった。新

月の夜は、日没を過ぎれば途端に漆黒の闇に沈むので、ふたりは慌

てて持ち出す物をバックに詰め込んで家を飛び出し、猫背山の「ス

カイツリーハウス」へと道を急いだ。

                                                            (つづく)


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