(三十七)

2012-07-11 17:08:17 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(三十六
                    (三十七)



 バロックを抱えて店を出た、雨は随分前に止んだようだ。往来

はいつもとは違う陽気で、雨が上がるのを固唾を呑んで待って

居たかのように人出が多かった。大通りに出てタクシーを拾い、

彼をアパートまで送った。アパートの近くまで来た時、バロック

はムクッと背を伸ばして、

「運転手さん、そこで止めて、そのコンビニで。」

彼は目を覚ました。

「なんだ、起きてたのか。」

「すまん。」

彼は、金は払うと言って私を降ろして、そして車から出てきた。

「雨止む言うてた?」

「どうだっけ?えっ!もしかしてこれから出るつもり?」

「出るかいな、もっかい飲み直すんや。」

そう言いながらコンビニへ入って行った。

 二人はバロックのアパートでもう一度飲み直すことになった。

彼の部屋は始めて来た時から随分と生活らしくなっていた。ただ、

床には手書きの五線紙が散乱していた。

「散らかってるけど、座りいや。」

彼はコンビニで買ったビールを私にくれ、彼は流しの方へいって

紙パックに入った焼酎とグラスを持ってきた。

「オリジナル創ってんの?」

「まあな。」

窓の下では季節を間違えた虫が遠慮がちに鳴いていた。

 「国が無うても人は存在できる、しゃあけど、人がおらんと国

は成り立たへん。」

バロックの話しが始まったが、私は今頃になって酔いが廻ってき

たので横になって聞いた。

「つまり、人間は国家に先行するだね。」

「そうや。」

バロックは私が教えたサルトルの「実存は本質に先行する」が気

に入って、二人で言葉を換えてよく使った。

「さっき、あんた儒教が良くないって言ってたけど、あれどうい

うこと?」

「うん、あんまり知らんけど、まあ早い話が秩序、つまり国家を

守る為には、下っ端の者に勝手な真似をさせんように頭を押さえ

付けとけってことや。」

「つまり礼儀とは洗脳ってことか。」

「ほんなら、さっき言うた『人間は国家に先行する』と合わへん

やん。」

「うん、合わへん。」

私は彼の言葉を真似た。

「せやけど、道徳や礼儀をうるさく言う者に限って、まともに挨

拶もせえへん、何でや思う?」

「さあ?」

「身分が違うからや。」

「なるほど。」

「秩序が大事やから言うて個人を縛り付けるのはやり過ぎや。」
                     
「実存は秩序に先行するだ。」

「江戸末期の大坂に富永仲基と云う人が、儒教も仏教も、後の者

が名を残そうとして新しい説を書き加えて本来とは違うものにな

っていると云った。それはつまり、その時代の実力者が自分達の

都合の良い解釈や教えを『加上』するからやと。孔子や釈迦が今

の儒教や仏教を知ったら驚くに違いないわ。孝行しろなんて、親

が言えないことを上から言われても、親に感謝する気持ちがあれ

ばするし、恨み骨髄に達すれば斧を振り下ろすやろ。」

「うん。」

「そのくせ、礼儀にうるさい人が礼儀正しいかと言うたら挨拶も

碌にでけへん。道徳にうるさい者ほど不道徳なんや。それは、道

徳が下の者を縛り付ける為にあるからや。支配者の秩序とは、自

らの地位を下の者に脅かされないことなんや。」

「要するに犬が腹を見せて服従するようなもんだね?」

「似てるかもしれん。」

「それで人はシニカルになるんだ。」

「上手い。秩序が乱れたら道徳を強いるが、秩序が乱れたんは道

徳が失われたんや無うて、人が道徳に従わなくなったんや。」

「何で?」

「あほらしくて、社会の不公平が、要するに正直に生きることがアホ

らしいなる。」

「なるほど、わかるかもしれん。」

「そこで、秩序が乱れたんは道徳が失われたからやと国民に責任

を転嫁する。富永仲基と云う人は、日本人は隠し事が上手いとま

で言ってる。」

「騙されるんだ、国民は。」

「頭を押さえられてるから下しか見えんのや、今では進んで目を

瞑るようになった。権力者が道徳を持ち出す時、そこには何かが

隠されていると思った方がええ。」

「混乱は秩序に先行するだね。」                      

「山本七平の『日本人とユダヤ人』やったと思うけど、日本人

の勤勉さを、今は成長著しいある国と比べて、人に倉庫番を任せて

も日本人は実直に番をするけども、その国では必ず品物が無くな

って、倉庫番その者が窃盗を企んで信用できない、と言うて、高度

成長を支えた日本人の道徳を讃えていたけれど、人が道徳に従わ

んように為るにはもっと社会的な背景があると思う。」

「高度成長の時は誰もが豊かさを共有できたもんね。」

「そう、何も倉庫の物をパチらんでも、否、真面目に働いて信頼

される方が豊かに為れた。下手こいてクビに為る方が怖かった。」

「それって余分な経費が節約できるんだよね、会社も。」

「なんぼ真面目に働いても『使い捨て従業員』じゃ不満を感じる

し、人は不安の中では利己的になるよ。」

「下手こいてクビに為っても怖くないしね。今度は倉庫番の見張り

が要るようになる。」

「それは経営者も同じで、厳しい競争を勝ち抜いて利益を上げよ

うと思えば、隠れて不正を行いたくもなるよ。」

「でも、世間の信用失うよ。」

「それやねん、信頼関係やねん、それが問題なんや。」

「ふん。」

「道徳を知らんわけやないんや、不正が良くないことも判ってる

んや、ただ、それを思い止ませる信頼関係が無くなったんや。」

「確かに。いくら道徳を説かれても『お前が言うな!』と言いた

くなる時があるよね。信頼できない者に言われたくない。」

「高度成長の時は誰もが前に進めたから多少の不満も我慢できた

。しかし、閉塞した状況でさらに苦しみを分かち合わなあかんと

したら、信頼できる社会やないと上手いこといかんやろ。」

「何で自分だけが辛い思いをしないといけない、となる。」

「今の社会、信頼できるか?今の政治、信頼できるか?」

「信頼は道徳に先行するや。」

                               (つづく)


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