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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

マーラー 歌曲集/フィッシャーディスカウ,フ.ルトヴェングラー,ケンペ&PO

2007年02月27日 21時38分47秒 | マーラー+新ウィーン
若き日のフィッシャーディスカウがフルトヴェングラー、そしてケンペと組んだ名盤中の名盤です。前者は「さすらう若人の歌」で52年に、後者は「亡き子をしのぶ歌」で55年に収録されていますが、どうしてこういう組み合わせになったのか、浅学の私は知りませんが、オリジナルではおそらく別々に発売されていたいたものをLP時代になったまとめたものが名盤化したのかもしれませんね。50年代中盤といえば収録はまだモノラルであり、音質的な面からも、古びてしてまいかねないアルバムでしたが、私がクラシックに耽溺していた80年代もこのアルバムは「名盤中の名盤」として評価が高く、レギュラープライスに近い形で発売されていたような気がします(違ったかな)。

 さて、このアルバム、私は80年代にこのアルバムをエアチェックかなにか録音したテープで繰り返し聴いたような記憶がありますが、多分、購入はしていないでしょう。おそらくこういう歌曲なら女声で歌ったものを聴きたくて、そちらを数枚購入したまま、次の対象に興味が移ってしまったというところではないかと思います。
 なので今回聴くのは実に久しぶりになるのですが、一聴してひきこまれました。さすがに名盤中の名盤という評価はだてではありません。そもそも私は歌曲というジャンルが得意でなく、その中でも男声の歌曲となるとほとんど興味からはずれてしまうのですが、このアルバムについては例外といえますね。とにかく両曲ともにフィッシャーディスカウらしさであるいつもの格調高さに加えて、ここでは若さ故なのかナイーブな情感のようなものがブレンドされ、微妙な緊張感を湛えつつも、知情意が見事にそろった歌い振りなっているのが素晴らしいです。一般的には老獪なフルトヴェングラーと組んだ「若人」のフレッシュな歌い振りが方が有名でしょうが、「亡き子」の抑圧された情念のようなものも見事なものがあると思います。
 フィッシャーディスカウという人の歌曲は数えるほどしか聴いていませんが、60~70年代のつくられた歌曲集などを聴くと、あまりにコントロールされた完璧さ故にとっつきにくく感じてしまったものですが、このアルバムでは素直に情感に訴えてくるような一途さのようなものにぐっときます。

 録音は52,55年ですから当然モノラルということになりますが、あまりに素晴らしいパフォーマンスなので、こうした音質上の欠点は1,2分聴いただけで忘れてしまいます(リマスターの効果もあるんでしょうが)。オケは50年代にEMIのハウス・オーケストラとして数々の盤歴を残したフィルハーモニアですが、フルトヴェングラーとケンペという指揮者を迎えたせいか、カラヤンの時のようなスリムな機動美さではなく、ドイツのオーケストラのような重量感とくすんだ響きがあってこれも良いところですね。
 あと蛇足ですが、ここに収録された「若人」と「亡き子」って、もし指揮者は逆だったらどうなっていただろ?と聴きながら考えちゃいました。まだまだブラームスみたいなところが残っている「若人」の方を正統派ドイツの巨匠ケンペが担当し、「トリスタン」の親類みたいな「亡き子」フルトヴェングラーが振るというのも、けっこうおもしろかったと思うのですが....。 
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ブラッド・スウェット&ティアーズ/子供は人類の父である

2007年02月27日 00時07分39秒 | ROCK-POP
 先日、シカゴのデビュウ作を聴いたからという訳でもないが、今度は70年代初頭シカゴと並び称されていたBSTのデビュウ作を聴いてみた。私はシカゴはほとんど聴いてこなかったけれど、BSTについてはある程度聴き込んでいたので、どちらかというとBST贔屓になってしまうはご承知いただきたい。さて、記憶によれば当時は「音楽性の高さでBST、ニュー・ロック的パワーと現代性でシカゴ」みたいな捉え方をされていたと思う。今聴くとこのふたつのバンドが持っていた音楽性は全くといっていいほど違うことがわかるのだが、当時は「ブラスロック」というカテゴリーでほとんど同一視されていたのだ。洋楽後進国だった頃ならではの話である。

 さて、BSTのデビュウ作だが、体裁としては冒頭と結尾にオーケストラによる序曲と終曲が一種の額縁にように配置され、、その間にバラエティに富んだ楽曲を配しつつ、最終的に一個の作品のようになるべく、つまりビートルズに「サージャント・ペパー」のようなトータル・アルバム的構成になっているのが特徴である。音楽的にはブラス・ロックとはいうものの、自前のブラス隊の他、序曲や終曲の他にもストリングスも容赦なく取り込み、ついでにテープの逆回しだの各種イフェクトも登場して、その後のBSTと比べれると全体としてはかなり賑々しいサウンドとなっている。このあたりは、サイケデリックの残り香のような影響もあったのだろうが、アル・クーパーという一種の元々インテリで音楽マニアが講じてミュージシャンになった彼の素地が出たともいえるではないか。

 具体的にいえば、「アイ・ラヴ・ユー・モア・ザン・ユール・エヴァー・ノウ」、「サムシン・ゴーイン・オン」はブルース・プロジェクトの後塵をはいしたブルース、「彼女なしには」は本格的ボサノバ、「ミーガンズ・ジプシー・アイズ」「ハウス・イン・ザ・カントリー」はサイケ、バカラックの影響がちらほらする「マイ・デイズ・アー・ナンバード」「ソー・マッチ・ラヴ」、正統派ニューロックである「アイ・キャント・クイット・ハー」、エルトン・ジョンみたいな「プラトンとディオゲネスとフロイトの現代的冒険」といった具合に、何しろ曲がバラエティに富みすぎているである....。まぁ、だからこそ序曲と終曲という額縁が必要だったのかもしれないが。

 ともあれ、今聴くとBSTとシカゴの音楽性の違いは明らかだ。ここに収録されているバラエティに富んだ楽曲は、おしなべてアル・クーパーという人の批評眼から生まれた産物で、意識的なきっちりとアレンジで出来上がった代物という気がするのに対し(だから上手いミュージシャンを集めたのだ)、シカゴは当事者意識のかたまりみたいな音楽で、理屈抜きでオレ達のやりたい音楽やるんだという野放図なパワーが溢れている。ようするにそういう違いがあったのである。BSTはこの後、アル・クーパーが抜けある意味デビュウ作以上に音楽主義的なバンドになっていくのだが、それはまたいずれ....。
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