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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

台湾の即席麺

2007年02月24日 22時31分17秒 | 台湾のあれこれ
インスタント・ラーメンの元祖であるチキン・ラーメンの考案者であり日清食品創業者でもある安藤百福が先日(1/5)亡くなったが、チキン・ラーメンのようなどんぶりに麺を入れ、お湯を注いで3分待つというスタイルは、大分前にチキン・ラーメンが復活して成功してから、他のメーカーも「それ専用」の麺をいくつか復活させて、レトロ・スタイル、復古調とい観点で多少復活してきているようだが、現代日本のインスタント・ラーメンは、チャルメラにせよ、サッポロ一番にしたところで、基本的には鍋で麺をゆでるが前提となった作りになっているんだと思う(これらのラーメンをどんぶりにお湯を注いで食する人はまさかいまい)。

 インスタント・ラーメンの調理法がどんぶりにお湯を注ぐスタイルから、鍋でゆでるの方法に移行したのは、一体、いつ頃のことだったのか正確には覚えていなけれど、多分、昭和40年代の中盤くらいだったと思う。カップヌードルが出たから、袋入りラーメンは鍋でゆでるスタイルに変わったと思う人もいるかもしれないけれど、記憶によればカップヌードルの登場前に、一般家庭では既に袋入りラーメンを鍋にいれてキャベツだのなんだとゆでる調理法は、袋にも書かれはじめていたしすっかり広まっていたはずだ。その後、昭和40年代後半にカップヌードルが登場して、お湯を注ぐスタイルはカップ麺の方に完全移行したという順番だったと思う。以来、日本のインスタント麺は調理法で完全に棲み分けをするようになったのである。

 ところが、私の知る限り日本以外の袋ラーメンは、たいていチキン・ラーメンのようなどんぶりにお湯を注ぐスタイルを守っている。中国しかり、韓国しかり、そして台湾しかりなのである。それらの国々にはちゃんとカップ麺も存在しているが、日本のような調理法による棲み分けはあまりないようだ。私は台湾や横浜の中華街などに行く人がいると、たいていみやげ代わりに、台湾の袋ラーメンを買ってきてもらうのだが、裏の調理法を読むと、鍋でゆでてもいいが、やはりどんぶりにお湯を注ぐ調理法が書いてある。よーするに安い値段で、気軽に作ってさっさ食う....という本来の目的を最優先しているのだろう。私の台湾の袋ラーメンを多分十種類以上は食べているが、基本的にはそういうノリな味である。客観的にみたら食品としてのクウォリティは日本製とは雲泥の差があると思うが、そうしたジャンキーな味であるが故に、私のようなオッサンには昭和40年代を懐かしませたりして、妙においしかったりするのである。

 そんな訳で、つい先日台湾帰りの職場の同僚が買ってきてくれた、袋ラーメンもあと一袋になってしまった。また、誰か買ってきてくれぃ....って、今年こそ自分で台湾にいかねばなぁ。
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マーラー 交響曲第1番「巨人」 +「花の章」/小澤&ボストンSO

2007年02月24日 20時16分14秒 | マーラー+新ウィーン
 こちらは小澤がボストンと77年に入れた演奏。小澤はフィリップスで全集を完成していますから、このグラムフォン盤は旧録ということになるんでしょう。やはり「花の章」をつけた5楽章版として演奏しているのが「売り」ですが、先ほど聴いてイマイチだったメータとイスラエル・フィルによる演奏に比べれば、よほどこちらの方がしっくりときます。もっとも、この演奏の「あっさり感」のようなものは、実はメータ以上だったりするんですが(笑)、小澤の場合、その「あっさり感」は、まるで絹ごしの冷や奴を食しているような感じで、これはやはり同胞人の強みなんでしょうね、全く違和感ありません。また、ややストイックではありますが、この頃の小澤にはまだ60年代の若武者時代にあった気っ風の良さみたいなものが残っていてますから、リズムのキレ、メリハリも必要にして十分なものがありますから、安心して聴いていられます。うーん、最初からこっち聴いてればよかったな。

 聴いていて、まず気がつくのはストリングスの透明感ですね。これは録音というのも大きく影響しているのかもしれませんが、メータとイスラエルの演奏が割と厚手の音色に特徴があったとすると、こちらはボストンらしいというべきなのか、小澤の個性なのか、いまいち判然としないところもありますが、ともかくシルクのような光沢をもち、いくら音を重ねても見通しのよい立体的なオーケストラ・サウンドは印象的で(音質的にはフィリップスのサウンドに似ているような気がします)、前述の「さっぱり」、「あっさり」といった形容詞を使いたくなるのも、そのあたりも大きいんだろうと思います。あと、もちろん、小澤らしくあまりこねくり回さず、ストレートに歌っているのも、そういった印象を倍加しているといえます。
 まぁ、そういう演奏なので、どちらかというと第2楽章の絵画性、第3楽章のトラッドっぽさ、第4楽章の情緒たっぷりの哀愁とかいう場面になると、ややくいたりないところがないでもないですが、両端楽章を造形的にもきっちり押さえつつさっそうと乗り切っていますから、全体のメリハリは十分、全曲を聴き終えると、なんともいえず交響曲を聴いたという充実感を感じさせてくれのは、やはりさすが小澤とボストンというべきなんでしょうね。私は小澤の振ったマーラーというのは、実はこれしか持っていないのですが、他はどうなんでしょうね。この演奏から推測するに、第4番くらいまで、かなりイケそうな気がするのですが....。
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マーラー 交響曲第1番「巨人」 +「花の章」/メータ&イスラエルPO

2007年02月24日 11時50分16秒 | マーラー+新ウィーン
 やっぱメータの演奏って、自分とは合わない....今さっき、休日の午前というリラックスした気分でもあり、最近ではめったに聴かない初期型マーラーでも聴こうと思い、メータとイスラエル・フィルによる第1番の演奏を取り出してきたんですが、それを聴きつつ、随所でそう思ってしまいました。もう何度も書きましたが、メータの演奏って妙な違和感があるんです。うまく表現できないんだけど、この人のつくる音楽のメリハリが微妙に自分の望むメリハリとズレているような感じがするというか....。今回は第1番自体聴くのが久しぶりでしたし、演奏内容などあまり関係なく、曲そのものを再確認する方が大きいと思っていたのですが、やっぱダメ。本当に相性が悪いと思います。思えば、シェーンベルクの「ペレアスとメリザンド」、R.シュトラウスの「家庭交響曲」、先日のマーラーの5番、ウィンナ・ワルツとか、この人の演奏ってみんなそうなんだよなぁ。

 ついでに書くと、この演奏はメータにとって3回目の第1番ということにになるようですが、なんかいつものメリハリすらなくて、妙におとなしくて軽い、ある意味古典派の交響曲でも振るような演奏になっているのも不満です(そういえば、第1楽章は主題のリピートを敢行してます)。そもそも、この演奏は「花の章」を付けて、より原点の交響詩に近づけるコンセプトのはずで、第1楽章の幸福感、第2楽章の天上的雰囲気、第4楽章の叙情、そして最終楽章のドラマティックさなど、演奏も相応に劇的なものでなければならないはずなのに、意図的にあっさりした演奏を指向しているのは明らかで(だとしか思えない)、このあたりも納得しがたい....というか、正直いってほとんど意味不明な感じすらします。
 ちなみにテラークみたいな厚めのホールトーンを取り入れた録音も、この演奏の場合、その平坦な印象に拍車をかけちゃっているようで、これまたイマイチでした。最終楽章の大太鼓の迫力はなかなかですけど....。
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