旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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数え唄

2019-08-01 00:10:00 | ノンジャンル
 歌謡の中には、一つ、二つと数を数えながら歌う「数え唄」がある。
 沖縄では(一つ、二つ、三つーーー九つ、十)までをテイーチ、ターチ、ミーチ、ユーチ、イチチ、ムーチ、ナナチ、ヤーチ、ククヌチ、トゥーと発音する。、そして、その数の頭の(読み音)に合った言葉を被せて、物語性を持たせたりして遊び唄にしている。
 ♪一つとや~ひと夜明ければお正月~
 のように「正月数え唄」、手毬遊びの折りの拍子付けにしている。
 その例は沖縄にもあって、ちゃんとした旋律を持つモノと、そうでないモノがある。
 次に記す「数え唄」は、沖縄各地の地名を当てている。()内は所在の市町村名。いわく。

 ♪ティーチ・手登根=てぃどぅくん(南城市佐敷)。
 ♪ターチ・棚原=たなばる(西原町)。
 ♪ミーチ・目取真=みどぅるま(南城市大里)。
 ♪ユーチ・与那原=ゆなばる(与那原町)。
 ♪イチチ・糸満=いちまん(糸満市)。
 ♪ムーチ・盛島=むりしま(在地不明)。
 ♪ナナチ・長浜=ながはま(読谷村)。
 ♪ヤーチ・山原=やんばる(沖縄本島北部地方の総称)。
 ♪ククヌチ・国頭=くんじゃん(国頭村=くにがみ)。
 ♪トゥー・渡嘉敷=とぅかしち(渡嘉敷村)。
 (渡嘉敷船から那覇旅登ぶたん!那覇ぬガジャンや 人喰えー強さに 梅ぬ花くぇんくぇん~)。那覇の西の離島渡嘉敷島から船旅をして那覇に上ったことだが、那覇の蚊は吸血力が強く、身体中、喰われて梅の花のように赤く腫れあがった。と囃したてる。
 童女たちは「手毬唄」で唱えながら、各地の地名を覚えたのだろう。

 戦前は戸数1800名ほどの現うるま市石川は、米軍が施設した捕虜収容地になったため、捕虜・寄留民が収容され、人口3万人に膨れあがった。その内、3000人余が毎日、軍作業員に駆り出されていた。
 「喰うためのみ生きていた」。
 石川捕虜収容地に身を置いた方々は異口同音にそう述懐する。そんな状況下、人びとの唇にのった「数え唄」に「石川小唄=一名敗戦数え唄」がある。昭和20年から21年にかけてのこと。自作自演をしたのは当時、市内で歯科医院を開業していた今帰仁村湧川出身・小那覇全孝氏。自らを(舞天・ぶうてん)と芸名し夜、灯りのついている家々を訪ね「命ぬ御祝儀さびら(戦火をくぐり抜け助かった)命のお祝いをしましょう」と、三線片手に歌い、勇気づけをした。暗黒の時代に、こうも明るく戯画的でいいのか?と思えるほどだ。

 {石川小唄・一名敗戦数え唄}
 ♪一つとせーえ~ ひふみよごろくなは通り いろはにほへとチリ横丁 碁盤十字のカヤ葺・テント町 これが沖縄一の市ではないかいな~
 ♪二つとせーえ~ 二人散歩も砂の上 靴の中にも砂が入る それもそうじゃないか 石川名物 砂と埃の町ではないかいな~
 ♪三つとせーえ~ 見渡すかぎり便所町~ ドラム缶の近代便所 エッサエッサと汲み出す特攻隊 あとは靖国参るじゃないかな~
 ♪四つとせーえ~ 夜の石川恋の町 あの辻この辻 ささやくは~ アイラブユー ユーラブミー ギブミーシガレットてな調子じゃないかいな~
 ♪五つとせーえ~ 何時来て見ても人の波~ 作業通いの娘さん 馴れぬハイヒールに おっと転んだ拍子に前歯が一本折れました~
 ♪六つとせーえ~ 昔さびしい石川も いまじゃ文化の花が咲く~ それもそうじゃないか 小那覇舞天々が控えているではないかいな~
 ♪七つとせーえ~ 何べん訊いても判らない あなたのお宅はどこでした~ それもそうじゃないか どいつもこいつも同じ規格のカヤ葺・テント葺きじゃないかいな~
 ♪八つとせーえ~ 痩せたお方はあんまりいない~ いないはずだよ缶詰太り 娘のクンダは太る一方 鏡水大根 素足で逃げるじゃないかいな~
 ♪九つとせーえ~ 恋と嫉妬の渦巻きに~ 明けて暮れるが石川市 それもそうじゃないか 女は男の四倍も五倍も ウヨウヨしてるじゃないかいな~
 ♪十とせーえ~ とんとん拍子に栄ゆく 住めば都よ 恋しなつかし三万市民~ 男も女も老いも若きも あなたもわたしも君も僕も ユーもミーも意志は変わらず 沖縄一の市にしようじゃないかいな~

 8月は敗戦の月。終戦時、7歳だったボク。「石川小唄」の舞台・石川にいたせいか、気分がすぐれない。蝉が辺りを鳴きすくめる「盛夏」のせいだろうか。