旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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慣用句いろいろ

2019-04-01 00:10:00 | ノンジャンル
 鴨長明(かものちょうめい=1155~1216)。鎌倉時代前期の歌人。名を(ながあきら)とも称するそうな。鴨長明持ち出したからと言って、知ったかぶりをするつもりは毛頭ない。また、できない。彼の詠歌のひとつに出会って大和の慣用句と沖縄のそれを、見比べてみようと思い立った。
 ‟剃りたきは心の中の乱れ髪 つむりの髪はとにもかくにも”
 初老にして仏門に入った長明らしく「頭を丸めて仏門に入ったからと言って、すぐに悟りを開けるものではない。形式よりは精神が優先。『つむり(頭)を剃るよりも心を剃れ』としている。
 なるほど。頭を丸めれば、それだけで悟り切った僧侶になれるかというとそうでもない。姿形よりも心を磨くことを第一としている。
 沖縄にも同義の諺がある。 
 『カーギ呉らやか たまし呉り=かーぎ くぃらゆか たまし くぃり
 これである。
 親は子どもに容姿、器量のよさを与えるよりも、まず、善悪の判別のつくタマシ(心・感性)を与えよ。
 まさに「頭剃るより心を剃れ」「衣を染めるより心を染めよ」。

 「見えない鶯よりも庭先の雀」というのはどうか。
 藪の中にいて姿が見えない鶯よりも、何時でも姿を見ることができる雀に親しみを覚える。沖縄風に言えば、
 「見いらんウグヰシやかねぇー、庭さちぬクラーどぅ ンゾーさる
 クラーは雀のこと。クラーは昔から米蔵の周辺で遊び、蔵の(クラ)に沖縄方言の特長である長音・引音(-)をつけて「クラー」もしくは「クラーグァー」と親しみを込めて呼んでいる。
 「明日の1両より今日の1分金」に共通しているだろうか。「明日の百より今日の五十」もある。
 “明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは”で、当てにならない明日よりも現実を重視することを奨めている。「明日は明日の風が吹く」と、のほほんとしているわけにもいかない。そこで、
 “この秋は雨か嵐か知らねども 今日の勤めの田草取るなり”と、明日に備える心得を強調することも忘れてはいない。「今日食めー明日やー如何ぁすが=ちゅう かめー あちゃーや ちゃーすが? 明日はどうするか?」と困窮の極めを言い当てた慣用句もある。

 「なぞなぞ・クイズ」のことを「ジンブン勝負=すーぶ」。または「物明かしぇー」という。ジンブンは「知恵」、勝負はこの場合「比べ」。つまりは「知恵比べ」となる。「物明かしぇー」は、モノの正体を明らかにすること。
 では出題。
 「あっても苦労、なくても苦労は何~んだ?」
 ・・・・・。答え=「金と子ども」。
 子どもは産まないと「ひとりでも産んでおけばよかった」と思う反面、親が理想とする子に育つかどうかの苦労がある。金銭もしかり。なければその苦労は計り知れない。逆にあり過ぎると、それをどう扱いきるか苦労・・・・だそうな。(独白=有り余ったことがないので、その苦労は皆目知らない。至極、さっぱりしたものだ)。
 言葉は汚いが「銭ぬ無ん沙汰や 馬ぬ糞心=ジンぬねんサタや ンマぬクスぐくる=金がないということは、何の役にも立たない馬糞の心境。ジンブンひとつ巡らず、この苦労はしたたか経験済み・・・・。同じ苦労ならば、子も金もあっての苦労を存分にしてみたい・・・・。

 とりとめもなく、もうひとつの慣用句。
 「内面菩薩、外面夜叉」。
 ♪卯の花の匂う垣根にホトトギス早も来鳴きて 忍び音もらす夏は来ぬ~。
学校唱歌で覚え、昨日今日も歌っているホトトギス。実物は見たことがないが、姿形はきれいだそうな。鳴き声もすばらしいという。なのになのに!ホトトギスは、あのグロテスクなトカゲを平気で、いや、好んで食するという。
 “あの声でトカゲ喰うかホトトギス”
 人間の本性、性格は見かけで判断できない。虫も殺さないような顔をしているが、付き合ってみれば不人情だったという例は周辺に少なくない。沖縄風に言えば、
 「上辺美らーが 内根性=うぁーび じゅらーが うちくんじょう」となる。
 上辺・見た目には善人だが、実は喰わせ者だという訳だ。

 慣用句、諺には肯定しなければならないことが多く、また逆に否定的角度から言い切った言葉がある。いずれを良しとするかは、その時々のその人なりにまかせることになるだろう。ボクの周辺では「あちら立てればこちら立たず」の事柄が多いが、ボクとしては
 “あちら立てればこなたが立たず 両方立てれば身が持たず”でいたい。いや、自惚れ!自惚れ!