『御大・おんたい』ということばがある。
『御大将』の略語で、辞典には首領・長・かしらの愛称と記されている。
RBCiラジオの人気パーソナリティーで月曜日から金曜日まで午後5時から放送の「いんでないかい!」を担当する柳卓(やなぎ たく)は、普段、ボクのことを「御大」と呼ぶ。ボクは「たく」と呼ぶ。
「卓よ。二人っきりの場合は(御大)もいいが、人前や放送で(御大)呼ばわりするのはヤメにしてくれないか。横っ腹がくすぐったくてならない」
そう申し入れるのだが、彼の返事にこちとらは「いい気持ち」にさせられる。
「何をおっしゃる御大。御大は放送界の長老で、それだけの実績のある方。ボクら後輩は御大の背中を見て日夜、頑張っているのですよ。ボクは御大をリスペクトして御大と呼ばせていただいているのですよ御大っ」
ここでも面と向かって御大を連発する。そこまで「よいしょっ」されると、「そうかなぁ、そうかなぁ」と見境なく是認してしまうのだ。褒め上手というか、敵を作らない柳卓の処世術なのかも知れないが・・・・。悪い気がしないのはどうしてだろう。
さて。前号のつづき。
2004年。沖縄タイムス社発刊、小生の拙文集「話のはなし・浮世真ん中」の(中ゆくい=中休み)の項に作家・詩人の故船越義彰大兄は「ヤナグチャー直彦」と題して褒めことばを寄せていただいた。
「ヤナグチャー」とは、口が悪いの意。
〔ヤナグチャー直彦〕
悪口雑言のことではない。強いて言えば言葉を飾らない。それが直彦の「言語生活」であると、私は視ている。彼と私は年齢からいうと、ひと回りほど違う。一つ違えばシージャカタ(先輩)。敬語で接するように躾られた那覇童であるにも拘わらず、彼は遠慮がない。例えば「タルーッチイ(太郎兄貴)がヤマト口を使うと言語障害を起こす」と私のことを電波に乗せる。これも不作法、ヤナグチになるかも知れないが、私はそうはとらない。なぜなら、この言葉には、彼の私に対する親しみと、下手なヤマト口への素朴な郷愁があるからだ。
もともと、悪口は蔭でコソコソささやかれ広まるものである。彼のようにあからさまに言うのは悪意がないからである。いや、かえって他人の欠点を微笑みで見つめ、諧謔に衣替えさせての発言。だから、毒にはならない。爽やかな風となって座を和やかにするのである。博識で、しかも、人情の機微を理解する力を備えた軽妙酒脱、粋人でなければならない。左様、上原直彦は粋人である。
直彦にはバック・ボーンがある。いい意味での那覇人気質が残っている。ただし、「ジークェー那覇」のそれではない。意識の中にある美質、欠点を承知した上での那覇人である。理屈っぽいが頑固ではない。他人、特に先輩への畏敬の念を忘れない。私と、遠慮なく話し合っているが、けじめのつけかたは見事だ。
ずいぶん前のことだが、食堂で直彦と顔を合わせた。私はある先輩と一緒であった。離れた席から近寄ってきた直彦は私と、直彦にとっては初対面の先輩に挨拶をした。それだけではない。食事を終えた私たちを、階段の降り口まで送り、
「ヨンナー メンソーリヨーサイ=お気をつけてお帰りください」と丁重な挨拶をした。
その先輩は「いいニーシェー(いい若者)」と、賛辞を惜しまなかった。
昔風をないがしろにせず、現在に対しても多面的に対応している上原直彦は、私にとって、まことに大事な知己である。(作家・詩人)
1960年代。船越義彰著「成化風雲録」が連載新聞小説として沖縄タイムス紙上を飾った。のちにそれはRBC放送劇団によってラジオドラマ化されるが、その琉球歴史・成化の時代の動乱を描いた小説のドラマ化の折り、主人公の風根丸に抜擢されて出演したのが小生である。
そうした縁があって船越義彰大兄を童名のタルー・タローを親愛をもって(タローッチー・タルーッチイ)と呼ばせて頂いたしだい。
「汝ぁがー、作家ねぇーなゐWUさんはじやしが、あんしん、思むくとぅ寝言ん、書ちとぅばしよー=お前は作家にはなれないだろう。でも、日ごろ思うこと、寝言でもいいから(書く)作業はつづけなさい」。
そう褒めてくださったのもタローッチーだった。
「褒め殺し」という言葉がある。過分な褒め言葉を信じて大成する人、逆に褒め言葉に押しつぶされる人もいる。逆に褒め言葉を額面通り受取り、エネルギーに変え得る人もいる。
柳卓に「御大」と「よいしょ」され、船越義彰大兄に「ヤナグチャー直彦」と褒められて「のほほん」と生きているボク。しあわせこの上もない。
『御大将』の略語で、辞典には首領・長・かしらの愛称と記されている。
RBCiラジオの人気パーソナリティーで月曜日から金曜日まで午後5時から放送の「いんでないかい!」を担当する柳卓(やなぎ たく)は、普段、ボクのことを「御大」と呼ぶ。ボクは「たく」と呼ぶ。
「卓よ。二人っきりの場合は(御大)もいいが、人前や放送で(御大)呼ばわりするのはヤメにしてくれないか。横っ腹がくすぐったくてならない」
そう申し入れるのだが、彼の返事にこちとらは「いい気持ち」にさせられる。
「何をおっしゃる御大。御大は放送界の長老で、それだけの実績のある方。ボクら後輩は御大の背中を見て日夜、頑張っているのですよ。ボクは御大をリスペクトして御大と呼ばせていただいているのですよ御大っ」
ここでも面と向かって御大を連発する。そこまで「よいしょっ」されると、「そうかなぁ、そうかなぁ」と見境なく是認してしまうのだ。褒め上手というか、敵を作らない柳卓の処世術なのかも知れないが・・・・。悪い気がしないのはどうしてだろう。
さて。前号のつづき。
2004年。沖縄タイムス社発刊、小生の拙文集「話のはなし・浮世真ん中」の(中ゆくい=中休み)の項に作家・詩人の故船越義彰大兄は「ヤナグチャー直彦」と題して褒めことばを寄せていただいた。
「ヤナグチャー」とは、口が悪いの意。
〔ヤナグチャー直彦〕
悪口雑言のことではない。強いて言えば言葉を飾らない。それが直彦の「言語生活」であると、私は視ている。彼と私は年齢からいうと、ひと回りほど違う。一つ違えばシージャカタ(先輩)。敬語で接するように躾られた那覇童であるにも拘わらず、彼は遠慮がない。例えば「タルーッチイ(太郎兄貴)がヤマト口を使うと言語障害を起こす」と私のことを電波に乗せる。これも不作法、ヤナグチになるかも知れないが、私はそうはとらない。なぜなら、この言葉には、彼の私に対する親しみと、下手なヤマト口への素朴な郷愁があるからだ。
もともと、悪口は蔭でコソコソささやかれ広まるものである。彼のようにあからさまに言うのは悪意がないからである。いや、かえって他人の欠点を微笑みで見つめ、諧謔に衣替えさせての発言。だから、毒にはならない。爽やかな風となって座を和やかにするのである。博識で、しかも、人情の機微を理解する力を備えた軽妙酒脱、粋人でなければならない。左様、上原直彦は粋人である。
直彦にはバック・ボーンがある。いい意味での那覇人気質が残っている。ただし、「ジークェー那覇」のそれではない。意識の中にある美質、欠点を承知した上での那覇人である。理屈っぽいが頑固ではない。他人、特に先輩への畏敬の念を忘れない。私と、遠慮なく話し合っているが、けじめのつけかたは見事だ。
ずいぶん前のことだが、食堂で直彦と顔を合わせた。私はある先輩と一緒であった。離れた席から近寄ってきた直彦は私と、直彦にとっては初対面の先輩に挨拶をした。それだけではない。食事を終えた私たちを、階段の降り口まで送り、
「ヨンナー メンソーリヨーサイ=お気をつけてお帰りください」と丁重な挨拶をした。
その先輩は「いいニーシェー(いい若者)」と、賛辞を惜しまなかった。
昔風をないがしろにせず、現在に対しても多面的に対応している上原直彦は、私にとって、まことに大事な知己である。(作家・詩人)
1960年代。船越義彰著「成化風雲録」が連載新聞小説として沖縄タイムス紙上を飾った。のちにそれはRBC放送劇団によってラジオドラマ化されるが、その琉球歴史・成化の時代の動乱を描いた小説のドラマ化の折り、主人公の風根丸に抜擢されて出演したのが小生である。
そうした縁があって船越義彰大兄を童名のタルー・タローを親愛をもって(タローッチー・タルーッチイ)と呼ばせて頂いたしだい。
「汝ぁがー、作家ねぇーなゐWUさんはじやしが、あんしん、思むくとぅ寝言ん、書ちとぅばしよー=お前は作家にはなれないだろう。でも、日ごろ思うこと、寝言でもいいから(書く)作業はつづけなさい」。
そう褒めてくださったのもタローッチーだった。
「褒め殺し」という言葉がある。過分な褒め言葉を信じて大成する人、逆に褒め言葉に押しつぶされる人もいる。逆に褒め言葉を額面通り受取り、エネルギーに変え得る人もいる。
柳卓に「御大」と「よいしょ」され、船越義彰大兄に「ヤナグチャー直彦」と褒められて「のほほん」と生きているボク。しあわせこの上もない。