「これが沖縄の夏だっ!」
自分の力を誇示して温度計は日中32、3度に位置し、夜は夜で熱帯夜を執拗に保っている。これに対抗するためには連夜クーラーのみならず、扇風機を併用せざるを得ない。勢い冷たい飲み物が多くなる。
あなたの「夏の飲み物」は何?
ボクの場合、市販のミネラルウォーターがもっぱら。冷蔵庫に入っているジュース類は、ふいに訪ねてくる来客や身内用と決めている。
たまには親しさにまかせて「ビールある?」「アイスコーヒーを」と、無遠慮に要求してくる御仁もいるが、そんな注文には応えられず、有り物で我慢していただいている。自分本位と言われても、家ではビールはもとより、アルコール類を口にしない習慣で「ビールある?」は、非常識にすら思えるのである。
先日は、わが家の慣習を知らない知人が「暑中見舞い」とやらでボトル入りコーヒーの4本セットを届けてくれた。厚情は素直に味合わなければならない。早速、アイスをたっぷり入れて飲んだ。久しぶりのそれは、意外な爽やかさで、喉を通過していく。シプタイ暑さ(しつこい蒸し暑さ)まで押さえてくれる効果があった。よほど快適だったのだろう。鼻歌まで出た。
♪一杯のコーヒーから 夢の花咲くこともある 街のテラスの夕暮れに 二人の胸の灯火が ちらりほらりと点きました~
んっ?待てよ?昭和14年。藤浦洸作詞、服部良一作曲。霧島昇、ミス・コロンビアの唄で世に出た、いわゆる「なつメロ」をどうしてボクはそらんじているのだろう。ふり返ってみるに少年時代、近くの映画館から、呼び込みのために流れていたこの歌を聞きおぼえたのが、いまがいままで脳の片隅に刷り込まれていたものと思われる。
独白=思い出すにしても、西田佐知子の‟コーヒールンバ”なら青春の歌でまだしも、‟一杯のコーヒーから”とは随分、時間を逆回ししたものだ。
コーヒーが沖縄に移入されたのはいつごろだろう。
風俗史をめくると明治8年(1875)の項に可否茶の文字が見える。熱帯植物の栽培に適した琉球でも栽培可能だろうと、琉球藩から沖縄県に移行する4年前の明治政府内務省は、ジャワ産のコーヒーの栽培を試みているが、収穫には至らなかったという。
日本人で初めてコーヒーを飲んだのは、長崎に寄港したオランダ船の取締役人だったとされるが、感想は「まずかった」と、感心していない。
しかし、押し寄せる西洋文化には抗しがたく明治21年(188が
8)まだ江戸のたたずまいを色濃くしていた東京上野黒門町に‟わが国初”の喫茶店「可否茶館」が開店。丸い木製のテーブル、籐椅子に天井にはランプを下げて西洋的雰囲気を売りにして、1杯1銭5厘で出した。初めは物珍しさで繁盛したが、新時代の味は、新しいモノ好きの東京人にも馴染めなくて、3年で閉店したと東京故事物語にある。
沖縄における喫茶店は大正初期、那覇にあった芝居常打ちの大正劇場の待ち合い所‟快楽店”。1杯5銭也。さらに大正中期になると、沖縄一の歓楽街‟チージ”波之上にコーヒーを出す‟波之上軒”が開店。那覇の文化人が通ったそうな。
♪一杯のコーヒーから モカの歌姫 ジャパ娘 歌は南のセレナーデ あなたと二人 朗らかに 肩を並べて 歌いましょう~
「ジャマイカ産以外は飲まない」「シュガーを入れるのは邪道」。などなど、巷にはコーヒー通が実に多い。ボクは銘柄は問わない。砂糖はふたつ。これだから‟通”からは‟野暮な男”に認定される。それでいいのである。
産地や砂糖、クリープ、ミルクを通の名にかけて排除し、ブラック派を必要以上に標榜。しかもしかも、飲む前にカップを鼻の下に運び、悦に入っているパフォーマンスをされると、耐えがたさを禁じ得ない。ボクにとってのコーヒーの味は‟誰と飲むか”これがすべてである。一人で飲むそれは苦い。
二人きりで飲む場合、場所は小さな喫茶店がいい。テーブルも小さめがいい。前に顔を寄せると、額がふれあいそうなほどがいい。会話は囁くようにトーンを落としたほうがいい。黙っていてもいい。そして時々、目と目が合えばそれでいい。男同士ではないのは言うまでもない。
ボクのコーヒー歴は長い。アメリカ軍が野戦用に携帯し、持ち込んだCレーション、Kレーションという缶詰には、クラッカー、バター、ジャム、シュガー、煙草4本、そしてコーヒーがコンパクトに入っていた。終戦直後の沖縄の子は、それで大人の世界を体験学習したのである。これでもコーヒーの味を知らない野暮な男のレッテルは取ってもらえないのか。
♪一杯のコーヒーから 小鳥さえずる春も来る 今宵ふたりのホロ苦さ 角砂糖ふたつ入りましょか 月の出ぬ前に 冷えぬ間に~
さる日。知り合ったばかりの女性に、いきなりビールをというのも失礼かと思い「コーヒーでもいかが」と、声を掛けたら「えっ!ほんとうにコーヒーだけですよ」ときた。
「ほんとうにコーヒーだけですよ」は何だったのか?いまもって解釈に苦しんでいる。やはり「野暮な男」か。
自分の力を誇示して温度計は日中32、3度に位置し、夜は夜で熱帯夜を執拗に保っている。これに対抗するためには連夜クーラーのみならず、扇風機を併用せざるを得ない。勢い冷たい飲み物が多くなる。
あなたの「夏の飲み物」は何?
ボクの場合、市販のミネラルウォーターがもっぱら。冷蔵庫に入っているジュース類は、ふいに訪ねてくる来客や身内用と決めている。
たまには親しさにまかせて「ビールある?」「アイスコーヒーを」と、無遠慮に要求してくる御仁もいるが、そんな注文には応えられず、有り物で我慢していただいている。自分本位と言われても、家ではビールはもとより、アルコール類を口にしない習慣で「ビールある?」は、非常識にすら思えるのである。
先日は、わが家の慣習を知らない知人が「暑中見舞い」とやらでボトル入りコーヒーの4本セットを届けてくれた。厚情は素直に味合わなければならない。早速、アイスをたっぷり入れて飲んだ。久しぶりのそれは、意外な爽やかさで、喉を通過していく。シプタイ暑さ(しつこい蒸し暑さ)まで押さえてくれる効果があった。よほど快適だったのだろう。鼻歌まで出た。
♪一杯のコーヒーから 夢の花咲くこともある 街のテラスの夕暮れに 二人の胸の灯火が ちらりほらりと点きました~
んっ?待てよ?昭和14年。藤浦洸作詞、服部良一作曲。霧島昇、ミス・コロンビアの唄で世に出た、いわゆる「なつメロ」をどうしてボクはそらんじているのだろう。ふり返ってみるに少年時代、近くの映画館から、呼び込みのために流れていたこの歌を聞きおぼえたのが、いまがいままで脳の片隅に刷り込まれていたものと思われる。
独白=思い出すにしても、西田佐知子の‟コーヒールンバ”なら青春の歌でまだしも、‟一杯のコーヒーから”とは随分、時間を逆回ししたものだ。
コーヒーが沖縄に移入されたのはいつごろだろう。
風俗史をめくると明治8年(1875)の項に可否茶の文字が見える。熱帯植物の栽培に適した琉球でも栽培可能だろうと、琉球藩から沖縄県に移行する4年前の明治政府内務省は、ジャワ産のコーヒーの栽培を試みているが、収穫には至らなかったという。
日本人で初めてコーヒーを飲んだのは、長崎に寄港したオランダ船の取締役人だったとされるが、感想は「まずかった」と、感心していない。
しかし、押し寄せる西洋文化には抗しがたく明治21年(188が
8)まだ江戸のたたずまいを色濃くしていた東京上野黒門町に‟わが国初”の喫茶店「可否茶館」が開店。丸い木製のテーブル、籐椅子に天井にはランプを下げて西洋的雰囲気を売りにして、1杯1銭5厘で出した。初めは物珍しさで繁盛したが、新時代の味は、新しいモノ好きの東京人にも馴染めなくて、3年で閉店したと東京故事物語にある。
沖縄における喫茶店は大正初期、那覇にあった芝居常打ちの大正劇場の待ち合い所‟快楽店”。1杯5銭也。さらに大正中期になると、沖縄一の歓楽街‟チージ”波之上にコーヒーを出す‟波之上軒”が開店。那覇の文化人が通ったそうな。
♪一杯のコーヒーから モカの歌姫 ジャパ娘 歌は南のセレナーデ あなたと二人 朗らかに 肩を並べて 歌いましょう~
「ジャマイカ産以外は飲まない」「シュガーを入れるのは邪道」。などなど、巷にはコーヒー通が実に多い。ボクは銘柄は問わない。砂糖はふたつ。これだから‟通”からは‟野暮な男”に認定される。それでいいのである。
産地や砂糖、クリープ、ミルクを通の名にかけて排除し、ブラック派を必要以上に標榜。しかもしかも、飲む前にカップを鼻の下に運び、悦に入っているパフォーマンスをされると、耐えがたさを禁じ得ない。ボクにとってのコーヒーの味は‟誰と飲むか”これがすべてである。一人で飲むそれは苦い。
二人きりで飲む場合、場所は小さな喫茶店がいい。テーブルも小さめがいい。前に顔を寄せると、額がふれあいそうなほどがいい。会話は囁くようにトーンを落としたほうがいい。黙っていてもいい。そして時々、目と目が合えばそれでいい。男同士ではないのは言うまでもない。
ボクのコーヒー歴は長い。アメリカ軍が野戦用に携帯し、持ち込んだCレーション、Kレーションという缶詰には、クラッカー、バター、ジャム、シュガー、煙草4本、そしてコーヒーがコンパクトに入っていた。終戦直後の沖縄の子は、それで大人の世界を体験学習したのである。これでもコーヒーの味を知らない野暮な男のレッテルは取ってもらえないのか。
♪一杯のコーヒーから 小鳥さえずる春も来る 今宵ふたりのホロ苦さ 角砂糖ふたつ入りましょか 月の出ぬ前に 冷えぬ間に~
さる日。知り合ったばかりの女性に、いきなりビールをというのも失礼かと思い「コーヒーでもいかが」と、声を掛けたら「えっ!ほんとうにコーヒーだけですよ」ときた。
「ほんとうにコーヒーだけですよ」は何だったのか?いまもって解釈に苦しんでいる。やはり「野暮な男」か。