旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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講談・知念積高“やんばる旅”

2015-04-10 00:10:00 | ノンジャンル
 物語のあらすじはこうだ。
 すでに宮廷音楽家として名を馳せていた知念積高(ちねん せっこう)1761~1828はあるとき、愛用の三線を携えてひとり、やんばる旅を試みた。やんばるとは、(山原)と書き本島北部を指す。
 さらなる歌心を求めての旅であった。
 住まいする首里から浦添~宜野湾~北谷を経て比謝矼を渡り読谷山間切喜名村に達した折には、陽は中天より西にある。
 「さて、どうしたものか。このまま先へ歩を進めるべきか。喜名村に宿をとるべきか。それとも恩納間切山田村を通り、多幸山を越えて、その先の仲泊村までは足を伸ばそう。多幸山にはフェーレー(追剥)が出没するというが、盗られるものはなし。陽は暮れようが、夜の山越えもまた風流。歌の(わび・さび)を感応するにはいいのかも知れない」。
 やがて知念積高は多幸山に入った。樹木鬱蒼(昼なお暗き)と評される多幸山の暮色は夜の闇に変わりつつある。鼻歌をお供に山の中腹まで来たとき、果たして、フェーレーに遭遇した。フェーレーどもは、焚き火を焚いて、近隣の民家から盗んできた仔牛をさばいて焼き、酒鬢を前に飲み喰らっている。
 間の悪さに知念積高は、彼らの目に触れないよう気を配りながら、そっと通り過ぎようとしたが、そこはフェーレー。酒盛りをしながらも見張り役を置いていた。知念積高は捕えられてしまった。
 「ワシたちの悪さの現場を見られたからには、この者を生かしておくわけにはいかない。縄を打て!酒盛りがすんだら首をはねてやろう」。
 松の根元に括られた知念積高は観念をした。そして言った。
 「お前たちの手に掛かって果てるのも運命。命乞いはすまい。しかし、私は音楽を探究する者。この世の別れにひと節歌わせてほしい」。
 「何っ?酔狂な奴!やがて首をはねられる者が歌三線となっ!よかろう。酒盛りには歌三線はつきもの!さあ、縄を解いてやれ!」。
 かくて縄を解かれた知念積高は三線を取り、チンダミ(調弦)をし、歌持ち(うたむち・前奏)を弾いた。本調子の名曲「仲間節」である。

 ♪我が身ちでぃんちどぅ 他所ぬ上や知ゆる 無理しるな浮世 情ばかい
 〈わがみ チディんちどぅ ゆすぬうぃや しゆる むりしるな うちゆ なさきばかい

 *チディ=つねる。
 歌意=我が身をつねって初めて他所さまの痛さを知る。人生、無理な生き方をしてはならない。浮世は(情)でもって成り立っている。
 名人知念積高の歌三線は高く低く朗々と多幸山の闇を包んだ。いや、フェーレーどもの心をも温かく包んだ。中には涙を流している者もいる。よほど心の底に沁みたのだろう。歌い終わって瞑目する知念積高の前に両手をついたフェーレーの頭(かしら。頭目)らしき者は神妙に言った。これまた両目に光るものがある。
 「恐れ入りました。これまで悪さばかりをして、歌三線を聴いてもなんら感じるものはなかったが、貴方さまのそれに接して、いままで旅人を脅し、物品を奪い、世間に背を向け、心休まることのない暮らしをしてきましたが、貴方さまの歌にある(情)を失念していました。歌三線がどうわれわれの邪心を払っていれたのか判りませんが、実に心を洗われました。(情)を持つことが、こんなに心を落ち着かせるものかを悟りました。今日限りフェーレー稼業を辞めて皆、親元に帰ります。元の百姓に還ります」。
 これを聞いた知念積高。フェーレーたちの輪の中に入り、東の空が白むまであの歌この歌を歌ったという。

 これは創作ばなしである。
 琉球音楽外伝・講談「知念積高やんばる旅」と題して舞台に乗せた。作・演出上原直彦。口演八木政男。地謡(初演)歌三線・野村流師範玉栄昌治。琴・筝曲保存会師範知名文子。
 この講談・話芸がひさしぶりに披露される。
 4月29日。午後6時半、沖縄市民小劇場あしびなーにおける北村三郎・芝居塾「ばん」の公演の演目のひとつである。口演は名優八木政男。地謡は琉球古典音楽安冨祖流教師で塾生の若手大城貴幸。
 語り芸の面白さと沖縄口の妙味が遺憾なく発揮される。

 講談は日本特有の話芸。講談という名称は明治以降ものだが、江戸時代には(講釈)と言い戦国時代の豪傑ばなし、伝記もの、記録ものを判り易く語り聞かせた。現在でも寄席で成されている。
 沖縄の芸能史には(講談芸)は記されていない。しかし、昭和29年民間放送として開局した琉球放送ラジオの番組表には「琉球講談」の文字を見ることができる。演じたのは戦前からの名優平良良勝。地謡はこれまた戦後の琉球古典音楽界に大きく名を刻まれる野村流師範幸地亀千代。
 最初の作品は平良良勝自らの筆による「護佐丸忠誠録」。言うに及ばず、琉球王国時代、天下を狙う勝連按司・阿麻和利の策略により、謀反人の汚名を着て討ち死にする護佐丸の心中を描いたもの。また、花衛仲島の名花と評判され、多くの琉歌を詠み恩納ナビ女、北谷モウシ女とともに琉球三大女流歌人のひとり吉屋チル女(ゆしやチル)の短く薄幸の生涯を描いた「吉屋物語」などがある。この作品では女優我如古安子を起用。(ふたりの講談?)になっている。この形式は平良良勝、我如古安子が初めて。のちに北村三郎、仲嶺真永によって(ふたり講談)は3作品ほど試みられている。

 4月29日(水)午後6時半。沖縄市民小劇場あしびなーに来ませんか。琉球講談を楽しみましょう。