旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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唱え・呪文

2012-09-01 00:59:00 | ノンジャンル
 思わぬことに遭遇する。それが、未経験あるいは、命に関わる場合、大人でも一瞬茫然自失に陥る。幼年のころ、急に驚愕してげんなりすると「まぶい うてぃ そぉん=魂、生気を落とした=」として、ことに母親、祖母はその現場に本人を連れて行き「まぶやぁ まぶやぁ あんまぁ ふちゅくる 入りよぉ まぶやぁッ=魂よ、魂よッ。おっかさんの懐に入れッ。戻れッ=」と、唱えた。そして、あんまぁは、呼び戻した<まぶい>を握った手で、我が子の頭をなでたり、抱きしめたりすることによって入魂をした。あんまぁは、我が子の命を幾度でも産むことができる。護ることができるのだ。
唱え。呪文は誠にありがたい。
鼻ふぃーん=くしゃみをする。
「はくしょんッ」ときたら、風邪薬三錠を飲む前に、間髪入れず「くす くぇッ!」と唱える。つまり「くそ食らえッ」である。くしゃみは、悪霊のなせる業と考えられていて、汚い言葉を投げつけることで悪霊払いをするのである。所によっては「くすくえッ」の後に「もうきてぃ めぇ くぇッ=儲けて米飯食えッ」を付け足している。これは、悪霊への唱えではなく、芋を主食としていた昔の庶民の<米の飯>に対する願望だったのではなかろうか。

かんない=雷。
雷に対しては「くわぁぎぬ しちゃ でぇびるッ=桑の木の下ですッ=」と唱える。かつて、雷が人家ではなく裏山の桑の木に落ちて人命が救われたという故事にならった呪文だ。

ねぇ=地震。
地震の場合は「ちょうちかッちょうちかッ」と唱えるがいい。
昔、浦添間切<現・浦添市>は、再三再四襲う地震に恐れおののいていた。このことを憂慮したのは、金武観音寺を開いた日秀上人。上人は村人とともに、この地に塚を造って霊験あらたかな経文を納め地震を封じた。「経文塚」に因んでこの地を「経塚」と呼称。大地がゆれると「ここは、神仏が加護する経塚だぞッ」と、沖縄中で唱えるようになった。「ちょうちか」は、経塚の方言読みである。
くしゃみに対しては、アメリカ、ヨーロッパでも「お達者でッ」とか「神の加護をッ」と、相槌を打つそうな。
自然現象の猛威の前では人間、手も足も出ず、呪文を唱えて厄を払い、神仏の力を頼みにするよりほかに術はないのだ。

*風巻ち=かじまち。竜巻。
竜巻が起きたとする。伊江島では「いゆ いゆッん めぇ めぇッん くぇーよぉッ」と唱える。神仏の心を穏やかならしめるために、供え物をするのと同じ理屈で「魚も米飯も捧げます。お静まり下さい」と、祈ったのである。また、具志川市方面では、竜巻や地震があると合掌して「うーとぉーとぅ。さき いっす」と唱える。「御神酒あがらぬ神はなし」で、人間の力ではどうにもならない自然現象の難を避けるためには神仏にすがる。
「神様ッ仏様ッ。酒を一升差し上げます。竜巻、地震をどうぞ鎮めて下さい」と、お願いしたのだ。
 21世紀。人間は科学にまるまるおんぶされて、神仏には頼らなくなった。かと思うとそうでもない。ハイテクの粋を結集した官庁、企業の最新ビルディングを建築するにも、まずは、地鎮祭に始まる。そして「かしこみかしこみ」工事の安全を神仏に願い奉った後も、建築の過程において欠かさず御祓いや祈りを捧げている。
借金苦や失恋の場合、人はおのれの努力不足を棚に上げて「ちくしょうッ!この世に神も仏もあるものかッ」なぞと暴言を吐くが待てッ。神仏と人間は一体であった方が世の中は平和である。
しかしまあ。神の成せる業か、人間の思い上がりのせいか。こうも世の中、不景気風の止む気配がない。新興宗教でも興して自ら神仏になってみようかと本気で思うのだが、人それぞれ、いまを何とか凌ぐために<神仏>さえ見向かなくなっている。
御神加那志。ちゃあ あたれぇ しまびぃがやぁッ」<神様ッ。どうすればいいのでしょうかッ>