◆昭和26年〈1951〉
◇空襲時の心得を通達。
昭和25年6月25日。朝鮮戦争勃発。東洋一の米軍基地嘉手納飛行場からは、昼夜を問わず爆撃機が発着した。「沖縄への空襲の恐れがある」とした米軍は翌年1月5日、民政府のロスゲブ大佐名で[空襲時の心得]を各界に通達した。
『空襲警報は、サイレンを1回1分間、3回鳴らす。解除は1回5分鳴らす』
沖縄中に緊張が走ったが、幸い空襲は1度もなかった。
【琉球政府行政主席】
※大田政作〈おおた せいさく〉。明治37年〈1904〉~平成10年〈1998〉出身地は国頭村。*第3代琉球政府主席。
写真:ウィキペディアHPより
昭和3年〈1928〉早稲田大学法学部卒業。在学中に高等文官試験に合格。卒業後、長崎地方裁判所判事、帰郷して那覇地方裁判所判事。さらに台北地方法院検事局検事を歴任。膨湖庁長官を務めて終戦を迎えた。戦後は熊本県で弁護士を開業していたが、昭和32年〈1957〉、当時の主席当間重剛の要請で再び帰郷、副主席に就任した。
昭和34年。当間主席の後を受けて[主席]に任命されるや、沖縄の保守勢力が結集して立党した「沖縄自由民主党」の総裁に選任された。在任中は、日本政府との協力関係を密接に保持しようと「日米琉懇談会」の設立を提唱した。しかし、時の米国政府キャラウェイ高等弁務官は沖縄の政治・経済界の独裁的に介入。世に言う[キャラウェイ旋風]が起き、沖縄自由民主党の足並みは混乱。遂に同党内の派閥抗争が激化、西銘順治ら反主流派の脱党をみるに至り、責任をとって昭和39年〈1964〉11月1日に辞職した。
その後は、上京して弁護士を開業。そして昭和40年、第7回衆議院議員通常選挙に自由民主党公認で出馬したが落選。次いで昭和47年、日本復帰の年に行われた沖縄初の沖縄県知事選挙に打って出るも、現職行政主席だった屋良朝苗候補に敗れた。
◆高等弁務官。
米国統治下の沖縄における現地最高責任者。
アイゼンハワー米大統領は昭和32年〈1957〉6月5日、沖縄に関する新基本法として『琉球列島の管理に関する大統領行政命令』を公布。従来の民政副長官に代わる[高等弁務官制]を設けた。高等弁務官の権限は絶大で*琉球政府主席の任命権。*琉球上訴裁判所裁判官の任命権。*法令公布権。*琉球政府の立法に対する修正権・拒否権。*琉球政府のすべての公務員に対する罷免権等々。権限、権力は絶対的だった。この高等弁務官は昭和47年〈1972〉5月15日の日本復帰まで続いた。ちなみに歴代高等弁務官は次の通り。
(1)ゼイムス・E・ムーア中将。(2)ドナルド・P・ブース中将。(3)ポール・W・キャラウェイ中将。(4)アルバート・ワトソン中将。(5)フェルナンド・T・アンガー中将。(6)ゼイムス・B・ランパート中将。
その3代目のキャラウェイ高等弁務官の時に[旋風]は起きた。
当時の米国大統領ケネディーの新政策に示された日米協調路線に反対したキャラウェイ高等弁務官は、沖縄を切り離す政策を打ち出した。『離日政策』である。これを「キャラウェイ旋風」と称し、沖縄中が大地震のように揺れた。彼の独裁方策は政治のみでなく経済、金融、社会に及び、まさに[旋風]だった。
◆【琉球政府行政主席】
※松岡政保〈まつおか せいほ〉。明治30年~平成元年=1897~1989=。
写真:ウィキペディアHPより
金武町出身。*第4代琉球政府行政主席。
明治45年〈1912〉に渡米。大正13年〈1924〉インディアナ州トライステート大学卒業。昭和2年〈1927〉に帰郷。昭和11年〈1936〉、沖縄製糖に入社し、技師や工場長を務めた。
戦後は、沖縄諮詢会委員や民政府工務部長を歴任。松岡建設、松岡配電を設立して、政財界に人脈を築いた。大田政作主席時代に始まった政局混迷を収拾するために昭和39年〈1964〉、主席に任命された。
在任中、保守政党の統合を実現させる一方、ワトソン高等弁務官に掛け合い、行政主席[公選]の実現など、沖縄の自治権拡大に尽力した。歴代主席の中では唯一、アメリカ留学を経験していることから、アメリカ人との交渉には長けていた。趣味は三線作り。金武町の自宅には、自作の三線が何丁もあった。
◆昭和30年〈1955〉
◇由美子ちゃん事件。
9月4日朝8時過ぎ嘉手納村〈現・町〉の俗称ヤラシ浜原で幼女の死体が発見された。幼女は石川市〈現・うるま市〉の写真館経営、永山盛吉さんの次女由美子ちゃん6歳。無惨な殺人だった。逮捕された犯人は、在沖第22高射砲隊B中隊所属アイザック・J・ハート軍曹31歳。裁判は幼女誘拐、強姦、殺人の容疑で、現北谷町瑞慶覧基地内の軍法廷において公開で成された。判決は第1級殺人で有罪。ハート軍曹は米本国に送られ[死刑]を宣告されたことになっているが、放免されたという説もある。
お知らせ!!
放送50年「民謡で今日拝なびら」inコザ
日時:2012年2月23日(木)
午後6時開場 午後6時30分開演
料金:前売り券 2,000円 当日券 2,500円
場所:沖縄市民会館大ホール
問合せ先:(有)キャンパスレコード 電話:098-932-3801
◇空襲時の心得を通達。
昭和25年6月25日。朝鮮戦争勃発。東洋一の米軍基地嘉手納飛行場からは、昼夜を問わず爆撃機が発着した。「沖縄への空襲の恐れがある」とした米軍は翌年1月5日、民政府のロスゲブ大佐名で[空襲時の心得]を各界に通達した。
『空襲警報は、サイレンを1回1分間、3回鳴らす。解除は1回5分鳴らす』
沖縄中に緊張が走ったが、幸い空襲は1度もなかった。
【琉球政府行政主席】
※大田政作〈おおた せいさく〉。明治37年〈1904〉~平成10年〈1998〉出身地は国頭村。*第3代琉球政府主席。
写真:ウィキペディアHPより
昭和3年〈1928〉早稲田大学法学部卒業。在学中に高等文官試験に合格。卒業後、長崎地方裁判所判事、帰郷して那覇地方裁判所判事。さらに台北地方法院検事局検事を歴任。膨湖庁長官を務めて終戦を迎えた。戦後は熊本県で弁護士を開業していたが、昭和32年〈1957〉、当時の主席当間重剛の要請で再び帰郷、副主席に就任した。
昭和34年。当間主席の後を受けて[主席]に任命されるや、沖縄の保守勢力が結集して立党した「沖縄自由民主党」の総裁に選任された。在任中は、日本政府との協力関係を密接に保持しようと「日米琉懇談会」の設立を提唱した。しかし、時の米国政府キャラウェイ高等弁務官は沖縄の政治・経済界の独裁的に介入。世に言う[キャラウェイ旋風]が起き、沖縄自由民主党の足並みは混乱。遂に同党内の派閥抗争が激化、西銘順治ら反主流派の脱党をみるに至り、責任をとって昭和39年〈1964〉11月1日に辞職した。
その後は、上京して弁護士を開業。そして昭和40年、第7回衆議院議員通常選挙に自由民主党公認で出馬したが落選。次いで昭和47年、日本復帰の年に行われた沖縄初の沖縄県知事選挙に打って出るも、現職行政主席だった屋良朝苗候補に敗れた。
◆高等弁務官。
米国統治下の沖縄における現地最高責任者。
アイゼンハワー米大統領は昭和32年〈1957〉6月5日、沖縄に関する新基本法として『琉球列島の管理に関する大統領行政命令』を公布。従来の民政副長官に代わる[高等弁務官制]を設けた。高等弁務官の権限は絶大で*琉球政府主席の任命権。*琉球上訴裁判所裁判官の任命権。*法令公布権。*琉球政府の立法に対する修正権・拒否権。*琉球政府のすべての公務員に対する罷免権等々。権限、権力は絶対的だった。この高等弁務官は昭和47年〈1972〉5月15日の日本復帰まで続いた。ちなみに歴代高等弁務官は次の通り。
(1)ゼイムス・E・ムーア中将。(2)ドナルド・P・ブース中将。(3)ポール・W・キャラウェイ中将。(4)アルバート・ワトソン中将。(5)フェルナンド・T・アンガー中将。(6)ゼイムス・B・ランパート中将。
その3代目のキャラウェイ高等弁務官の時に[旋風]は起きた。
当時の米国大統領ケネディーの新政策に示された日米協調路線に反対したキャラウェイ高等弁務官は、沖縄を切り離す政策を打ち出した。『離日政策』である。これを「キャラウェイ旋風」と称し、沖縄中が大地震のように揺れた。彼の独裁方策は政治のみでなく経済、金融、社会に及び、まさに[旋風]だった。
◆【琉球政府行政主席】
※松岡政保〈まつおか せいほ〉。明治30年~平成元年=1897~1989=。
写真:ウィキペディアHPより
金武町出身。*第4代琉球政府行政主席。
明治45年〈1912〉に渡米。大正13年〈1924〉インディアナ州トライステート大学卒業。昭和2年〈1927〉に帰郷。昭和11年〈1936〉、沖縄製糖に入社し、技師や工場長を務めた。
戦後は、沖縄諮詢会委員や民政府工務部長を歴任。松岡建設、松岡配電を設立して、政財界に人脈を築いた。大田政作主席時代に始まった政局混迷を収拾するために昭和39年〈1964〉、主席に任命された。
在任中、保守政党の統合を実現させる一方、ワトソン高等弁務官に掛け合い、行政主席[公選]の実現など、沖縄の自治権拡大に尽力した。歴代主席の中では唯一、アメリカ留学を経験していることから、アメリカ人との交渉には長けていた。趣味は三線作り。金武町の自宅には、自作の三線が何丁もあった。
◆昭和30年〈1955〉
◇由美子ちゃん事件。
9月4日朝8時過ぎ嘉手納村〈現・町〉の俗称ヤラシ浜原で幼女の死体が発見された。幼女は石川市〈現・うるま市〉の写真館経営、永山盛吉さんの次女由美子ちゃん6歳。無惨な殺人だった。逮捕された犯人は、在沖第22高射砲隊B中隊所属アイザック・J・ハート軍曹31歳。裁判は幼女誘拐、強姦、殺人の容疑で、現北谷町瑞慶覧基地内の軍法廷において公開で成された。判決は第1級殺人で有罪。ハート軍曹は米本国に送られ[死刑]を宣告されたことになっているが、放免されたという説もある。
お知らせ!!
放送50年「民謡で今日拝なびら」inコザ
日時:2012年2月23日(木)
午後6時開場 午後6時30分開演
料金:前売り券 2,000円 当日券 2,500円
場所:沖縄市民会館大ホール
問合せ先:(有)キャンパスレコード 電話:098-932-3801