“雨<あみ>どぉーゐ モーチーチャーチャー 慶良間ぬ後<くし>から 晴りてぃ呉みそぉりっ!”
もう歌われなくなったし、歌ったひとも少数になった那覇のわらべ唄である。
せっかく外での遊びに興じていたのに、雨が降りだし遊びを中断されてしまったわらべたち。集落の広場なら必ずと言っていいほど、そして広場の主のように立っていたガジマルの老木の下や、近くの家の軒下に駆け込みながら呼ばわった。
“雨だぞうッ!モーサー<人名>チャーチャー<おじさん>。早く隠れないと濡れちゃうよッ!(そして)雨よ。(南西に位置する)慶良間島の後ろの方から(徐々に)早く晴れておくれよ”。
遊び仲間でもないモーサーチャーチャーにまで、声を掛けたわらべたちの心根が嬉しくなる。自分たちが遊んでいた広場の近くで仕事に夢中になっている彼にも、雨を避けるように促すことを忘れてはいない。「慶良間の後ろから徐々に晴れておくれ」と、願望したのは那覇の気象を知っているからだ。夏と冬では方角は異なるが、那覇の夕陽が沈むのは慶良間の後方であり、雨も風も大抵は西から降り吹き、止むのも常とする。
那覇には、西の海が鳴りだすと「ウァーチチ<天気>が崩れる」という民間天気予報がある。したがって、いかに大雨でも慶良間諸島のさらに後方の空が明るくなると「雨は上がる」ことを那覇わらべたちは知っていたのである。
いまでは、西の海の騒ぎなぞ街中の喧騒に昼夜問わずかき消されて聞こえないが、かつてわらべだった大人たちは、そのことをいまでも口にする。また、海鳥が山に向かって飛び始めると海は〔時化る〕とも言う。これは、いまでも変わらない。
カモメの沖縄口は、地方によってはあるかも知れないが、私はしらない。海鳥はすべてウミドゥイと称してきた。白い海鳥を歌った節もある「白鳥小=しるとぅやーぐぁ」「白鳥節=しらとぅやーぶし」がそれだ。
“御船ぬ高艫に 白鳥が居るちょん 白鳥やあらん ウミナイ御霊”
この歌の場合「御船」は〔ふ〕を省略して〔うに〕と発音する。尊敬・美称だけに〔御船〕は漁船ではなく王府時代、唐や薩摩に派遣される役人を乗せた公船を指す。
航海中の御船の高艫に白い海鳥が羽を休めてか止まった。いやいや、あれはただの海鳥ではない。航海の安全を守護するウミナイ神だ、と歌っている。
「ウミナイ」は「姉妹」。御霊=ウシジ=は、霊魂のこと。一家の男たちの長旅の航海の無事を加護・守護するのは〔姉妹神〕と信仰されていて、このことを背景にして詠まれた。一種の祈り歌と言えよう。
海や沼地に生息するサージャー<白鷺>も、風向や天気を予測してくれる。
八重山は西表島の1集落租内<そない>の前海にある岩礁のひとつ、通称「まるまぶんさん=まるま盆山」は、シルサイ<八重山方言・白鷺>の休息場・ねぐら。そのシルサイがどんな恰好で、どこを向いて羽を休めているかを見れば、風向や天気を予測することができると島びとは言い伝え、島うた「まるま盆山節」に読み込んでいる。丸く盆のような形をした岩礁なことから、この名称が付いている。そして歌は、
“阿立=あだてぃ・大立=うふだてぃ・宇嘉利=うかり・下原=そんばれ・そんばる・真山=まやま・内道=うちみち・成屋=なりや・舟浮=ふなうき”と、近隣の集落名を並べて歌い、さらに
※租内の津口<ちぐち・港口>に浮いているミティン木<目印の木・浮標・ぶい>の上には、餌の魚を狙ってアタグ<海鵜>がいる。
※(夕刻になると)点在する島々の間の水路を通って、漁に出ていた舟が、舟人たちの掛け声も勇ましく、櫓や櫂を操って港に帰ってくる。平和な情景であることか。
と続く。
海でもアギ<陸>でも人は、生きものと暮らしのリズムをともにしたことが、この「まるま盆山節」からも感じられる。
八重山語のシルサイは、那覇方言ではサージャーと称している。
少年のころ、近所に住んでいたおじさんは、普通の人よりも頸部が長かった。誰に教えてもらうでもなく少年たちは「サージャーおじさん」と呼んでいた。
白鷺のように首の長い人間はまずいないが、そうあだ名されていた。少年たちは何の悪意もなく「サージャーおじさん」と、声を掛けると「ぬーが=なんだい」の返事が気さくにあった。きっとおおらかな性格の〔いい人〕だったに違いない。が・・・・いまもって本名を知らないでいる。
シトシトと飽きずに降る雨もいとわず、放し飼いの鶏が餌をついばみ回ると、その雨は「長引く」と言われてきたが、昨今は放し飼いの鶏なぞ、ついぞお目にかかることはなくなって、梅雨情報はもっぱらラジオ・テレビに頼っている。6月上旬までは降り続くだろう。それまでは雨とも仲よく付き合うことにする。
もう歌われなくなったし、歌ったひとも少数になった那覇のわらべ唄である。
せっかく外での遊びに興じていたのに、雨が降りだし遊びを中断されてしまったわらべたち。集落の広場なら必ずと言っていいほど、そして広場の主のように立っていたガジマルの老木の下や、近くの家の軒下に駆け込みながら呼ばわった。
“雨だぞうッ!モーサー<人名>チャーチャー<おじさん>。早く隠れないと濡れちゃうよッ!(そして)雨よ。(南西に位置する)慶良間島の後ろの方から(徐々に)早く晴れておくれよ”。
遊び仲間でもないモーサーチャーチャーにまで、声を掛けたわらべたちの心根が嬉しくなる。自分たちが遊んでいた広場の近くで仕事に夢中になっている彼にも、雨を避けるように促すことを忘れてはいない。「慶良間の後ろから徐々に晴れておくれ」と、願望したのは那覇の気象を知っているからだ。夏と冬では方角は異なるが、那覇の夕陽が沈むのは慶良間の後方であり、雨も風も大抵は西から降り吹き、止むのも常とする。
那覇には、西の海が鳴りだすと「ウァーチチ<天気>が崩れる」という民間天気予報がある。したがって、いかに大雨でも慶良間諸島のさらに後方の空が明るくなると「雨は上がる」ことを那覇わらべたちは知っていたのである。
いまでは、西の海の騒ぎなぞ街中の喧騒に昼夜問わずかき消されて聞こえないが、かつてわらべだった大人たちは、そのことをいまでも口にする。また、海鳥が山に向かって飛び始めると海は〔時化る〕とも言う。これは、いまでも変わらない。
カモメの沖縄口は、地方によってはあるかも知れないが、私はしらない。海鳥はすべてウミドゥイと称してきた。白い海鳥を歌った節もある「白鳥小=しるとぅやーぐぁ」「白鳥節=しらとぅやーぶし」がそれだ。
“御船ぬ高艫に 白鳥が居るちょん 白鳥やあらん ウミナイ御霊”
この歌の場合「御船」は〔ふ〕を省略して〔うに〕と発音する。尊敬・美称だけに〔御船〕は漁船ではなく王府時代、唐や薩摩に派遣される役人を乗せた公船を指す。
航海中の御船の高艫に白い海鳥が羽を休めてか止まった。いやいや、あれはただの海鳥ではない。航海の安全を守護するウミナイ神だ、と歌っている。
「ウミナイ」は「姉妹」。御霊=ウシジ=は、霊魂のこと。一家の男たちの長旅の航海の無事を加護・守護するのは〔姉妹神〕と信仰されていて、このことを背景にして詠まれた。一種の祈り歌と言えよう。
海や沼地に生息するサージャー<白鷺>も、風向や天気を予測してくれる。
八重山は西表島の1集落租内<そない>の前海にある岩礁のひとつ、通称「まるまぶんさん=まるま盆山」は、シルサイ<八重山方言・白鷺>の休息場・ねぐら。そのシルサイがどんな恰好で、どこを向いて羽を休めているかを見れば、風向や天気を予測することができると島びとは言い伝え、島うた「まるま盆山節」に読み込んでいる。丸く盆のような形をした岩礁なことから、この名称が付いている。そして歌は、
“阿立=あだてぃ・大立=うふだてぃ・宇嘉利=うかり・下原=そんばれ・そんばる・真山=まやま・内道=うちみち・成屋=なりや・舟浮=ふなうき”と、近隣の集落名を並べて歌い、さらに
※租内の津口<ちぐち・港口>に浮いているミティン木<目印の木・浮標・ぶい>の上には、餌の魚を狙ってアタグ<海鵜>がいる。
※(夕刻になると)点在する島々の間の水路を通って、漁に出ていた舟が、舟人たちの掛け声も勇ましく、櫓や櫂を操って港に帰ってくる。平和な情景であることか。
と続く。
海でもアギ<陸>でも人は、生きものと暮らしのリズムをともにしたことが、この「まるま盆山節」からも感じられる。
八重山語のシルサイは、那覇方言ではサージャーと称している。
少年のころ、近所に住んでいたおじさんは、普通の人よりも頸部が長かった。誰に教えてもらうでもなく少年たちは「サージャーおじさん」と呼んでいた。
白鷺のように首の長い人間はまずいないが、そうあだ名されていた。少年たちは何の悪意もなく「サージャーおじさん」と、声を掛けると「ぬーが=なんだい」の返事が気さくにあった。きっとおおらかな性格の〔いい人〕だったに違いない。が・・・・いまもって本名を知らないでいる。
シトシトと飽きずに降る雨もいとわず、放し飼いの鶏が餌をついばみ回ると、その雨は「長引く」と言われてきたが、昨今は放し飼いの鶏なぞ、ついぞお目にかかることはなくなって、梅雨情報はもっぱらラジオ・テレビに頼っている。6月上旬までは降り続くだろう。それまでは雨とも仲よく付き合うことにする。