旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

17年の長きに渡り、ネット上で連載された
旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』のアーカイブサイトです!

婚姻の風習・馬手間

2010-09-30 00:13:00 | ノンジャンル
 「娘がフランス人と結婚しましてネ。パリに住むことになりました。これでパリがグッと近くになりましたし、ヨーロッパ旅行の機会が増えるかも知れません」
 56歳の知人は嬉々として話す。祝福の言葉はかけたものの、私には考えられない親の心情を感じた。なにしろ、戦前生まれで昭和33年〈1958〉に20歳になった私。[一生のうちに飛行機なるものに乗る機会があるだろうか。フランス・アメリカ・中国へ行くことなぞ、まずないだろうなぁ]と、真顔で考える時代環境だった。まして、母国・祖国と教えられた日本国には見捨てられ、そこへ行くにも米民政府の厳重な審査を受けて取得するパスポートを携帯しなければならないとあっては、渡航の夢は封じ込められて[あきらめ]だけが残った私だった。もっともそれは、私個人の場合であって、多くの若者たちが苦難をはねのけ、勇気をもって国内外への留学・就職したことは言うまでもない。家庭事情の勢にしてはいけないが、私に飛躍の勇気がなかっただけのことだ。
 この観念は、いまもって払拭できず、沖縄以外で生きることなぞ、考えただけでも身震いがする。
 あれから半世紀。私も一皮剥けたころ渡航も自由になり、本土はもちろん、アメリカ本土を除く海外旅行を楽しんでいるが、件の知人のように娘をパリに嫁がせることには、絶大なる拒否反応を示し、命に代えても阻止するであろう。他人の子はどうであれ、自分の子を距離的・空間的・時間的隔離の存在に置くとは[何の人生!]なのである。では[子の人生はどうなる!]と問われると、そこまでは考えたことはない。また、考えたくもない。幸いにして息子と2人の娘は、父をよく理解して県内で、しかも沖縄人同士結婚して5人の孫を抱かせてくれている。私の人生はこれでいいのである。


 婚姻のあり方も時代に沿って異なる。
 大正5年〈1916〉。沖縄県浦添村〈現・市〉字仲西の親富祖カメ〈20歳〉は、実家とはつい目と鼻の先の同村字内間の大城嘉三〈19歳〉に嫁ぐことになった。しかし、同村には[婚姻に関する内法]があった。すなわち[他字・他村に嫁ぐ女性からは、馬手間を徴収のこと]。親富祖カメは、この内法に該当するとして罰金50円を支払うハメになった。この事例の場合、罰金は彼女のみならず、新郎大城嘉三にも課され都合[100円を納入した]と記載されている。
 【馬手間=んま でぃま】とは、年ごろの女性が他地域へ嫁ぐことは即、労働力の低下を意味する。それを防ぐための罰金慣行。
 この慣行は宮古・八重山にはなく、村落の耕地・山林・原野の共有制と村民配当地の割替制・地割り制度のあった本島のみにしかない。地割り制度の基は、税の負担の村・字割りだったため、生産高と税負担増加を防がなければならない。その対価として慣行となったのが[馬手間]だ。女性の労働力を馬1頭に対価したのではない。
 夫になる男性が判明すると、村の二才頭〈にーしぇー がしら。青年会長〉の指揮のもと、若者組の手によって本人を捕え、木製の擬馬に股がらせ拝所を巡拝した後、村中を引き回した。いじめ抜き恥をかかせるのである。そこで結婚する二人は、擬馬による[村中引き回しの刑]を免れるために金品や酒・米などを村公認の若者組に納めたことから[馬手間]の名がついたと言われる。他に[酒手間=さき でぃま]とする地域もある。
 それらの例をいくつか拾ってみよう。
 ※大正6年9月、宜野湾村〈現・市〉伊佐の伊佐カメ〈23歳〉は、同村我如古の仲宗根真喜〈23歳〉に嫁いだ際、20円60銭の馬手間を請求された。
 ※宜野湾村野嵩の玉城カメ〈18歳〉は、同村嘉数の比嘉亀〈26歳〉に嫁ぐのに40円を払った。
 ※宜野湾村野嵩玉城ウシ〈18歳〉は、今帰仁村生まれの与那嶺某〈20歳〉と結婚することになったが、馬手間を拒否。駆け落ちをした。
 また、勝連村〈現・うるま市〉では、馬手間は1円。大正後期に入ると各地で高騰。南部各地ともども20円~50円。北部の今帰仁村古宇利は1円だったが5円及び酒3升になっていた。因みに当時、沖縄毎日新聞社勤務・渡嘉敷錦水記者の月給は12円と交通費5円が支給されていたという。
 各地共通していることは、徴収された馬手間は若者組が仕込む旧暦8月15日の村遊びや村芝居など年中行事の費用に当てられたと言うが、これは建前で実際は若者組の[WUたゐ治し]と称する疲れ治し・慰労会の酒肴費用になった。
 この慣行は[悪習慣]として明治後期に禁止令が出ていたが、その後の税制度の改正によってしだいに姿を消していった。それでも大正期から昭和初期まで残っていたのは、罰則というよりも、結婚を祝福する[余興]のひとつに変化したのではないかと思われる。


 「娘は決して県外、国外には嫁がせない!」
 時代に逆行する私のような頑固者を完全無視するかのように、昔も自由恋愛、結婚の自由を主張する女性がいた。琉歌にそれを見ることができる。他村に出かけた際、その村の若者に「キミ。どこから来たの。生りジマ〈生まれ在所〉はどこ?」と声をかけられて女性は即座に返歌をしている。
 
 男=シマやまがアバ小
 女=シマぬ有み我身に 里がめるシマどぅ 我シマさびる

 〈シマやまがアバぐぁ
  シマぬあみ わみに サトゥがめるシマどぅ わシマさびる


 歌意=アバ小〈15~20歳の女性〉の生まれ在所はどこ?に対する返事はこうだ。
 アラッ!女のアタシに生りジマなぞあるものですか。里〈男性の美称〉が愛してくれるなら、アナタのふるさとがアタシのふるさとよっ!
 この二人が馬手間を取られたかどうか。そのようなことを推察するのはヤボの骨頂。青春バンザイ!である。