★連載 NO.275
「こんな結果が出ました」
伊志嶺笑里さん<26才>は、宮古・伊良部の出身。オクラホマ大学卒業。現在は、専門学校・那覇日経ビジネス工学院英米語留学科講師である。日ごろ「オクラホマ」の愛称でつき合っている。
「オクラホマの教室の生徒たちに、沖縄のうたとして、無作為に脳裏に浮かぶ歌を3つ挙げてもらってはくれまいか」
特別な調査意識ではなく、ごく普通の会話での思いつきで依頼したのは、ひと月ほど前のことだった。18才から20才。沖縄の若者16名の(沖縄のうた)はこう出た。
①安里屋ゆんた。②てぃんさぐぬ花。③ハイサイおじさん。以下、じんじん。ちょーんちょーん節。芭蕉布。赤田首里殿内<あかたすんどぅんち>。うるわしの琉球。なりやまあやぐ。ミルクムナリ。島唄。風のどなん。島人ぬ宝。十九の春。黄金の花。豊年の唄。いっちくたっちく。かじゃでぃ風。芋ぬ時代などなど。
「安里屋ゆんた」がトップなのは、昭和8年<1933>、星克<ほし かつ>によって、共通語の歌詞が付けられて以来、県民愛唱歌的に歌われているし、現在でも、本土のテレビ局の沖縄レポートのBGMの定番になっているからだろう。覚えやすいのも確か。
ミルクムナリ・島唄・風のどなん・島人の宝・芭蕉布・ハイサイおじさん等は、ここ40年来、ラジオ、テレビ、そしてCD時代に入ってヒットしたもの。
興味を覚えるのは「いっちくたっちく」「赤田首里殿内」「じんじん」など、昔からの童うた、遊びうたが、英米語を学ぶ若者たちの唇に乗っているということだ。その背景には、家庭環境が見え隠れする。おそらく「オクラホマ教室」の16名には、父母や祖父母との生活があって、子守歌代わりに聞いて育ったのではなかろうか。
では、彼らの父母や祖父母は、どんな(沖縄のうた)を歌っていたのだろう。
昭和47年<1972>。沖縄の日本復帰を前に「あなたが愛唱する島うたは?」と、50名ほどにアンケートを取ったことがある。年齢は40代、50代と高かったが、てぃんさぐぬ花、浜千鳥節、汗水節、かじゃでぃ風、安里屋ゆんた、エイサーうた等々が上位を占めていた。流行り歌よりも教訓歌、望郷歌、祝い歌、祭り歌の色が濃いのは、いかにも沖縄的と言えないこともない。
私の少年時代はどうだったか。
那覇市垣花に生まれ、昭和20年<1945>終戦の年に小学校1年生の私の体の中には(さんしんによる沖縄うた)は、ひとつもなかった。巡回映画が、やがて常打ちになったころ、映画館の屋根の上の拡声器<スピーカー>が、呼び込みのために流す蓄音機盤の美空ひばり、市川歌丸、東海林太郎、岡晴夫、田畑義夫らの歌。そして、美しき天然、碧きドナウの流れ、かっこうワルツなどが(音楽)のすべてであった。学校にはオルガンさえない。もちろん、音楽の本は望むべくもない。いや、教科書は教師のみが辛うじて所持していた時代である。
歌とは、まったく無縁だったかというと、そうでもない。近所にはギターをよくする大宜見の兄さん、マンドリンの名手西銘のおじさんがいて「湯の町エレジー」「青い山脈」を弾いてくれたし、替え歌などを教えてくれた。
日本帝国陸軍の消灯ラッパのメロディーは、
♪新兵さんは かわいそうだね~ 寝てまた泣くのかね~
になり、同じく進軍ラッパは沖縄口で教わった。
♪我っ達ぁオトーや 馬ぬ糞拾るやー あんしがやー 上等兵やんどー~
(うちのお父さんは(軍隊では)馬の糞拾いらしい。しかしッ!上等兵だぞッ)
国体も何も分からないまま、何故か胸を張って歌っていた。
「いまの小学校1年生の教科書には、どんな歌が採用されているのか」
ふと思い立ち、取り寄せて開いてみた。
* みっきぃ まうすマーチ。*せいじゃのこうしん。*けんけん ぱ。*ぶん ぶん ぶん。*おちば。*はる なつ あき ふゆ。*こいぬのマーチ。*しろくまジェンカ。*かえるのルンバ。他。
なにしろ小学校1年生。漢字は用いてないがマーチ、ジェンカ、ルンバなどの片仮名には、平仮名のルビがふってあり、漢字は教科書の最後にある「国家」のみで「こっか」のルビ。
(きみがよはちよにやちよにさざれいしのいわおとなりてこけのむすまで)
1年生たち。いまは歌詞の理解のないまま教わるが、長じて、
(君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで)であることを知ることになる。皆して歌う・・・・だろうか。
余談。
「かじゃでぃ風」は、王朝時代から今日まで歌い踊られている。これほどのヒット曲もあるまい。その大ヒット曲をRBCiラジオの時報をリードにして、沖縄中で歌ってみようというのが「第15回・ゆかる日まさる日さんしんの日」である。その日は3月4日。
次号は2007年2月15日発刊です!
上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com
「こんな結果が出ました」
伊志嶺笑里さん<26才>は、宮古・伊良部の出身。オクラホマ大学卒業。現在は、専門学校・那覇日経ビジネス工学院英米語留学科講師である。日ごろ「オクラホマ」の愛称でつき合っている。
「オクラホマの教室の生徒たちに、沖縄のうたとして、無作為に脳裏に浮かぶ歌を3つ挙げてもらってはくれまいか」
特別な調査意識ではなく、ごく普通の会話での思いつきで依頼したのは、ひと月ほど前のことだった。18才から20才。沖縄の若者16名の(沖縄のうた)はこう出た。
①安里屋ゆんた。②てぃんさぐぬ花。③ハイサイおじさん。以下、じんじん。ちょーんちょーん節。芭蕉布。赤田首里殿内<あかたすんどぅんち>。うるわしの琉球。なりやまあやぐ。ミルクムナリ。島唄。風のどなん。島人ぬ宝。十九の春。黄金の花。豊年の唄。いっちくたっちく。かじゃでぃ風。芋ぬ時代などなど。
「安里屋ゆんた」がトップなのは、昭和8年<1933>、星克<ほし かつ>によって、共通語の歌詞が付けられて以来、県民愛唱歌的に歌われているし、現在でも、本土のテレビ局の沖縄レポートのBGMの定番になっているからだろう。覚えやすいのも確か。
ミルクムナリ・島唄・風のどなん・島人の宝・芭蕉布・ハイサイおじさん等は、ここ40年来、ラジオ、テレビ、そしてCD時代に入ってヒットしたもの。
興味を覚えるのは「いっちくたっちく」「赤田首里殿内」「じんじん」など、昔からの童うた、遊びうたが、英米語を学ぶ若者たちの唇に乗っているということだ。その背景には、家庭環境が見え隠れする。おそらく「オクラホマ教室」の16名には、父母や祖父母との生活があって、子守歌代わりに聞いて育ったのではなかろうか。
では、彼らの父母や祖父母は、どんな(沖縄のうた)を歌っていたのだろう。
昭和47年<1972>。沖縄の日本復帰を前に「あなたが愛唱する島うたは?」と、50名ほどにアンケートを取ったことがある。年齢は40代、50代と高かったが、てぃんさぐぬ花、浜千鳥節、汗水節、かじゃでぃ風、安里屋ゆんた、エイサーうた等々が上位を占めていた。流行り歌よりも教訓歌、望郷歌、祝い歌、祭り歌の色が濃いのは、いかにも沖縄的と言えないこともない。
私の少年時代はどうだったか。
那覇市垣花に生まれ、昭和20年<1945>終戦の年に小学校1年生の私の体の中には(さんしんによる沖縄うた)は、ひとつもなかった。巡回映画が、やがて常打ちになったころ、映画館の屋根の上の拡声器<スピーカー>が、呼び込みのために流す蓄音機盤の美空ひばり、市川歌丸、東海林太郎、岡晴夫、田畑義夫らの歌。そして、美しき天然、碧きドナウの流れ、かっこうワルツなどが(音楽)のすべてであった。学校にはオルガンさえない。もちろん、音楽の本は望むべくもない。いや、教科書は教師のみが辛うじて所持していた時代である。
歌とは、まったく無縁だったかというと、そうでもない。近所にはギターをよくする大宜見の兄さん、マンドリンの名手西銘のおじさんがいて「湯の町エレジー」「青い山脈」を弾いてくれたし、替え歌などを教えてくれた。
日本帝国陸軍の消灯ラッパのメロディーは、
♪新兵さんは かわいそうだね~ 寝てまた泣くのかね~
になり、同じく進軍ラッパは沖縄口で教わった。
♪我っ達ぁオトーや 馬ぬ糞拾るやー あんしがやー 上等兵やんどー~
(うちのお父さんは(軍隊では)馬の糞拾いらしい。しかしッ!上等兵だぞッ)
国体も何も分からないまま、何故か胸を張って歌っていた。
「いまの小学校1年生の教科書には、どんな歌が採用されているのか」
ふと思い立ち、取り寄せて開いてみた。
* みっきぃ まうすマーチ。*せいじゃのこうしん。*けんけん ぱ。*ぶん ぶん ぶん。*おちば。*はる なつ あき ふゆ。*こいぬのマーチ。*しろくまジェンカ。*かえるのルンバ。他。
なにしろ小学校1年生。漢字は用いてないがマーチ、ジェンカ、ルンバなどの片仮名には、平仮名のルビがふってあり、漢字は教科書の最後にある「国家」のみで「こっか」のルビ。
(きみがよはちよにやちよにさざれいしのいわおとなりてこけのむすまで)
1年生たち。いまは歌詞の理解のないまま教わるが、長じて、
(君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで)であることを知ることになる。皆して歌う・・・・だろうか。
余談。
「かじゃでぃ風」は、王朝時代から今日まで歌い踊られている。これほどのヒット曲もあるまい。その大ヒット曲をRBCiラジオの時報をリードにして、沖縄中で歌ってみようというのが「第15回・ゆかる日まさる日さんしんの日」である。その日は3月4日。
次号は2007年2月15日発刊です!
上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com