旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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琉歌で寿ぐ・申年

2016-01-01 00:10:00 | ノンジャンル
 「キャッ!キャッ!」
 いやいや、猿の声ではない。2歳になる男児・孫が年始にやってきた。猿の縫いぐるみ相手に騒いでいる。キャッ!キャッキャッは猿の鳴き真似をしているのである。本人は「サル」をまだ「シャル」としか言えない。75歳年上の爺は、それだけで「いい正月」を享受するのである。

 ◇朝夕我が願えや くとぅぐとぅやあらん 命果報強さ あらち給り
 <あさゆ わがにげや くとぅぐとぅや あらん ぬちがふう ぢゅうさ あらちたぼり
 
 長命は、命の果報あってのこと。‟1年の計は元旦にあり”の慣用句で捉えるとこの1年、朝夕願うことは、あれこれ多くのことではない。願望はただひとつ。胴頑強(どぅ がんじゅう・健康)それのみです。(そうあらせ給え)と、年頭の祈願を昔びとを詠んでいる。十二支を6周り余り経過させた爺にとっては‟正月や冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし”の1句がちらつかないでもないが、キャッキャッ!の声を聞くと、いましばらくは「命果報」を願いたくなる。もちろん、それは己一人のそれではなく、一族郎党、友人知人のそれも同時に願うのは言を待たない。

 申=十二支の第9。昔の時刻で、今の午後3時から5時までの2時間。方角は西南西。
 猿は沖縄には生息しない。けれども、桃太郎のはなしに親しんだせいか、幼少のころから(身近な愛嬌者)として傍らにいる。往年の空手の達人本部朝基(もとぶ ちょうき=1871~1944)は、身のこなしが猿のように敏捷だったことから(本部猿・むとぅぶサールー)と、愛称・・・・というよりも尊称されている。また、歌三線にのせて即興で舞う「カチャーシー舞い」でも、ひょうきんな手ぶりを随所にいれて成すのを「サールー舞うい・猿舞い」と称し、祝座を沸かせる。

 ◇今日ぬ佳かる日に 昔友逢ちゃてぃ 嬉しさや互げに 語てぃ遊ば
 <きゆぬ ゆかるひに んかしドゥシ いちゃてぃ うりしさや たげに かたてぃ あしば

 正月祝い、長寿祝い、誕生日などなど、すべて佳日。
 聖人孔子は‟友、遠方より来る、また楽しからずや”と詠じている。必ずしても、公的なそれではなくても、友・旧友・古馴染みの来訪は(佳日)に違いない。正月はそのいい機会である。日頃訪ねたくても果たせない旧友訪問も、年の始めには諸事厭わずできる。その歓びを「今日の佳き日に古馴染み相集い、一献かたむけながら語り合う」。至福のときになる。
 多くのことを教示して下さった教育者・芸能研究家の与那覇政牛翁(1895~1972)宅には、正月のたびに昔友、教え子たちが参集。組踊の台詞を唱え合ったり、三線の音を楽しんでおられた。風雅な佳日のありようで(いい年齢になったら、ボクもそうしよう)と決心したことだが、いまだに実践していない。

 猿・申・サル。
 猿は呼び名もさまざま。エテ、エテ公、ましら、モンキーなど。辞書には、ヒトを除く霊長類の総称。南アメリカ産で樹上生活の広鼻猿類のほかにツバイ、キツネザルなどの原始的な源猿類も含まれるとある。

 慣用句にみる猿。
 *犬と猿=(人間の)相性がよくないさま。犬猿の仲。
 沖縄には猿がいないため「猿」は「猫」にその座をゆずり「犬と猫・インとぅマヤー」と言う。
 *猿がラッキョウを剥く=猿にラッキョウを与えると、食べる部分を残さず、しまいまで全部皮を剥いてしまうことから、無駄な努力をして、効果がまったく現れないさま。
 そのせいか「猿は人間に毛が三本足らぬ」という。人間によく似てはいるが、知恵は及ばないことを言い当てた俗語。

 ◇根ぬ張ゐや巌 身は龍ぬ如とぅ 寿や千歳 子孫揃るてぃ
 <にぬはゐや いわう みやタチぬぐとぅ くとぅぶちや ちとぅし しすんするてぃ

 歌意=松の大木。老木が巌を抱き、四方に根を張るような生命力、精神力。身体は天駆ける龍のような頑強さであり、歓びごと・寿は千歳に続く。もちろんそれは子孫揃ってのことでありたい。
 たいそう欲張りすぎる1首ではあるが。しかし「願いらーいい事からまぎまぎーとぅ願り」ともいう。願い事をするならば、いい願いを大きく大きく願いなさい昔びとは奨励している。
 さあ、開幕した申年、何がどう待ち受けているか予断はできないが、身も心も健全であって(大望)をもって行動したいものだ。

 孫が置き忘れた猿の縫いぐるみが、遊んでほしいのかこっちを向いている。キャッキャ!と小声で言い、指で鼻先をつついたら、キャッキャ!と返事をしたような気がした。それなりの(正月日和)である。