旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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沖縄=県令・知事・主席。そして知事 その⑧

2011-11-20 00:17:00 | ノンジャンル
 「沖縄人は日本国民になった以上、政治・経済・教育・文化等々、あらゆる面で他府県に遅れを取ってはならない」
 大正期になると県民の意識は高揚。特に若者たちは“新時代”を手応えよく捉えて、自己啓発に努めた。しかし、人工的には旧王府時代の人びとが少なくはなく、大河の如く押し寄せてくる本土からの波に翻弄されていた。

 ◆大正5年〈1916〉
 □自動車登場。
 5月。那覇西本町の寄留商人経営の大坪商店が移入。琉球新報社はこれを借り受け、本や模型写真でしか自動車を知らない県民のために、これを花で飾り『花自動車』と称して那覇~首里~美里村泡瀬〈現・沖縄市〉~名護町〈現・市〉へ。日を変えて大里村与那原〈現・町〉~糸満町〈現・市〉を走らせた。殊に那覇界隈=久茂地通り~西本町~大門通りを一大パレードしたのは言うまでもない。沿道は言葉通り[黒山の人]で、肝心の花自動車は立ち往生するありさまだった。名護では学校を休校にし、近隣の老若男女も仕事を休み拍手大喝采でこれを迎えた。ちなみに、午前6時30分に那覇を発った花自動車が名護に着いたのは昼前の11時30分。文明の利器のエンジン音に沖縄中が[新時代到来]を実感した。

 ◆大正6年〈1917〉
 □方言札。
 日露戦争後、国家意識を高めるため、全国に「共通語・普通語」に普及運動が明治40年ごろから展開される中、沖縄の学校では「罰札制度」が実施され、方言取り締まりが本格化した。沖縄口を使う者には横1寸〈約3.03㎝〉縦2寸くらいの木札が渡された。ひと言につき1枚の木札は、成績表の行い・品行・行状を評価する『操行点』を2点減ずる厳罰だった。そのため、学校成績よりも操行点による落第者が続出した。
 この罰札制度は地域によって方法は異なったが、方言使用者は学校の黒板に[学年・氏名]を掲示公表する中学校や、罰札を首から吊される小学校もあった。
       
        喜宝院蒐集館蔵

 ※【官選知事時代】
 ◆小田切磐太郎〈おだぎり いわたろう〉。明治2年~昭和20年=1869~1945=。長野県須坂生まれ。*第8代沖縄県知事。
 東京帝国大学独法科卒業。福岡県書記官・栃木県事務官・山口県内務部長・山口県知事を歴任。大正5年4月28日、沖縄県知事に任命されたが赴任していない。と言うのも前任者の大味久五郎は、小田切が山形県書記官の時の部下だったことから、大味の後任は左遷と受取り赴任せず、一週間後に依頼免職となった。とかく問題の多かった大味知事の後任人事に県民は「沖縄県は、地方官吏の塵溜めではないッ」と、政府を批判した。

 ◆鈴木邦義〈すずき くによし〉。明治4年=1871=三重県出身。没年不詳。*第9代沖縄県知事。
 東京帝国大学法科卒業。佐賀・長崎・東京各府県事務官。岐阜県書記官、千葉・滋賀両県の事務官、宮城県・大阪府の内務部長などを歴任。大正5年5月4日、沖縄県知事に任命された。3年間の在任中「模合取締規則」の制定、軽便鉄道補給金59万円余円の獲得に尽力したが、健康に恵まれず休職している。

 ◆川越壮介〈かわごえ そうすけ〉。明治9年~昭和29年=1876~1954=。鹿児島県出身。*第10代沖縄県知事。
 東京帝国大学英法科卒業。内務省警保局を経て岩手県赴ついた後、福島県事務官及び警務部長・香川・奈良・徳島・長崎・福岡各県の警察部長及び内務部長を歴任。大正8年4月18日付けで沖縄県知事になった。在任中県庁舎の移転や沖縄県営鉄道嘉手納線の敷設着工。県に糖業課の設置による糖業振興、水産試験場設置など、産業振興に力を注いだ。大正10年〈1921〉5月27日、徳島県知事に転出した。

 ◆大正6年〈1917〉。
 □タクシー走る。
 名護市出身・山入端隣次郎が米製T型フォード3台を移入して営業。人力車料金が那覇一円10銭だったが、このタクシーは那覇の奥武山入口から、そう遠くはない若狭町まで50銭也。県庁や新聞社でも緊急時に利用する程度で、庶民の及ぶ乗り物ではなかった。

 ◆大正8年〈1919〉。
 □県人女医1号。
 那覇市出身・渡嘉敷繁子は、東京女子医学専門学校に学び、医師国家試験に合格。東京在任中に千原成悟医師と結婚。千原繁子となった彼女は、昭和3年に帰郷して夫君と「千原医院」を開業。なお、それより先に鹿児島県人杏フクは、大正6年に医師資格を得て、那覇市波之上石門通りで父親と共に開業していた。