旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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沖縄=県令・知事・主席。そして知事 その⑥

2011-11-01 01:17:00 | ノンジャンル
 明治25年<1892>7月20日着任以来、明治41年までの実に15年10ヵ月在任した第4代奈良原繁沖縄県知事は、政務以外でも豪快な行動をした人物のようだ。
 当時、県下一流の妓楼〔風月楼〕主人楢原嘉平は、昭和7年6月4日付琉球新報紙面で『奈良原知事の思い出』をこう語っている。
 「常人とは桁違いの酒量。泡盛、日本酒、ビールと何でもござれ。興に乗ると”酒だ!酒だ!酒持ってこいッ!”を連発していた。日露戦争後、日本海軍の軍艦『浪速』が那覇港に寄港した際は、官庁以下仕官を招待して宴会を催したのはいいが、酔いにまかせた若い士官が気に障る発言をした。奈良原知事は、サッと着物の片袖を脱ぎ『若僧ッ。生意気を言うなッ。伏見寺田屋騒動の奈良原繁を知らぬかッ!』と、一喝した。普段の着衣は、ヒダの取れた袴に色褪せた羽織、利休下駄といった幕末の志士そのもので頓着を払わなかった。琉球芸能にも馴れ親しむようになったが、ご自身も薩摩琵琶を巧みにこなした。殊に『西郷隆盛討死』の吟詠は、辺りを圧倒した。

 ♣明治34年<1901>
 ◇奥武山公園<おおのやま>開園
 大正天皇が皇太子のころの御成婚を記念して、6月17日に開園式を催した。御成婚は前年の5月10日。建設発起人は29人。工費300円は大方、一般募金による。
 ♣明治35年<1902>
 ◇映画上映
 岡山県在孤児院の募金募集のため、上映隊が来沖。内容は定かではないが、これが沖縄初の映画上映とされる。フィルムに収められた「影が動く・踊る」として「カーガー・モーヰ=影舞い」「カーガー・WUドゥヰ=影踊り」と言い、珍しがられた。
 ♣明治36年<1903>
 ◇人類館事件。
 4月。大阪で開催された第5回勧業博覧会の見世物のひとつに〔学術〕の冠をつけた『人類館』が設置された。(当時の呼称をそのまま使えば)朝鮮人、台湾生番、アイヌの女性とともに琉球女が陳列展示された。はじめは、中国人も入れる予定だったが、清国公使の抗議があって実現しなかった。朝鮮有志からも撤回運動が起きた。もちろん、沖縄県民も抗議。琉球女も解放される。このことを同年5月17日の琉球新報はこうじている。
 「人類館に監禁されていた上原ウシ、仲村カメの両名は、遂に魔窟から脱して薩摩丸にて帰県した」
 沖縄県はまだ「ニッポン」ではなく、異民族視されていたのである。

 ※【官選知事時代】
 ♣日比重明<ひび しげあき>。嘉永1年~大正15年=1849~1926。三重県出身。第5代沖縄県知事。
 明治3年<1870>菰野藩<こものはん>に出仕。以降、東京府属。高知県、和歌山県、千葉県の参事官や書記官を歴任。明治33年<1900>1月。沖縄県書記官に。奈良原知事の片腕となって活躍。明治41年<1908>4月6日。離任する奈良原知事の推薦により、沖縄県第5代知事に就任した。諸々の施策の中でも糖業試験場設置、砂糖取締規則および砂糖検査規則の施行など、沖縄の産業振興に力を注いだ人物。10年余の在任で沖縄に通じ、県民からも親しまれたが、中央の政変によって依頼免職を余儀なくされた。

 ♣明治41年<1908>
 ◇ブラジル移民。
 4月28日。日本人移民158家族781人の内、沖縄人50家族355人を乗せた移民船「笠戸丸」は横浜港を出港。6月18日、サントス港に到着。これが沖縄からのブラジル移民の始めとされる。
 ♣明治42年<1909>
 ◇県会議員選挙。
 特別県制が施行されて県議会開設。5月に県議会議員選挙が行われた。議席数30。ただし、有権者は720人の那覇区・首里区、町村会議員に限られた。それでも県民は「自ら選ぶ議員は、知事や大和役人と対等にものが言える」と歓喜した。当選者は教育者16人、銀行家7人、村長6人。ほか実業家、新聞記者、医者など。
 ♣明治43年<1910>
 ◇電燈会社設立。
 4月。才賀藤吉、香野蔵治ら寄留商人を主とする11人が発起人。しかし、ランプ生活に慣れた人びとは「電燈とは何ぞや?」と、文明の利器に対する知識が乏しかった。そこで電燈会社は、啓蒙のための趣意書を県下に配った。いわく。
 『電燈はガス燈や石油燈などのように臭気がなく、脳や気管支、肺を侵さない。光は静止してツラつくことがないため、夜間の裁縫や読書が出来る。風が室内に入っても、電燈は消えず安心できる』
 いよいよ文明開化の時がきたのである。