★連載NO.351
人が集まるとどうしても〔まとめ役〕が必要になってくる。その道に秀でた人は、自らの集団、団体、組織作りをして〔指導者〕になる例も少なくない。メンバー・スタッフもまた、指導者を見習って後継者と成るべく努力する。
例えば、普通にする就職にもそれは見られる。学校を卒業して、必ずしも自らが希望した職種に100%満たなくても、まずは仕事に就いたことを喜びとする。その喜びに浸っている間は昇進なぞ脳裏にはないが、仕事を覚えて自分の可能性と人生を意識しはじめると、1ランクでも上を目指すのは当然のことと言えるのではあるまいか。これも、まとめ役、指導者、後継者、経営者、専門家への道のひとつで、うまく行けばその人物をひと回りもふた回りも大きくするエネルギーになると思われる。
しかし、いかに才能豊かで周囲から〔優秀〕の評価を得、将来を属望されたとしてもそううまくいかないのも世の中である。
昔。
琉球国を仕切った名宰相具志頭親方蔡温〈ぐしちゃん うぇーかた さいおん。1682.9.5~1761.12.29〉のころ。首里の名家に生まれた池宮城青年は学力優秀、品行方正。いずれ「琉球国を動かす大人物になるだろう」というのが王府内での専らの評判であった。やがて複数の親方〈王府の大臣級の職名〉や親雲上〈ぺーちん。次官級〉の推挙があって、彼は遂に宰相蔡温の側近役に取り立てられた。人びとの期待は大きく、池宮城青年自身もそれに応えて忠実に職務を励行していた。しかし1年後、蔡温は彼を側近から外してしまった。
「これは、いかにッ!」
解せない処分に対して重臣たちは、その真意を蔡温にだした。蔡温は静かに答えた。
「なるほどこの若者は抜群に優秀で、与えられた職務は完璧に成した。このことは大いに認める。しかし、彼は王府の中枢にありながら、この国の将来について一言の提言も提案もなかった。いま琉球国に必要なのは、遺漏なく職務を遂行する若者ではなく、これからの琉球国はどうあるべきか、どう進むべきか、単なる夢でもよし。そのことを考え語る若い人材なのだ」
蔡温の判断を読者はどう受け取るか。賛否いずれもあり得るが、現代でも大企業であればあるほど〔夢を語る〕若者が多くはいないように思える、筆者が世間知らずに過ぎるか、単なる危惧・老婆心いや老爺心か。そうあってほしいが・・・・。
夢といえば。大きい小さいは別として、自分にとっての夢を果たした男がいる。
友人喜納政宥〈69歳〉。
「少年のころから海への憧れがあって、高校は迷わず県立水産高校に進み、卒業して琉球海運KKに就職。琉球丸、那覇丸、球陽丸に乗って世界の海を渡った。憧れの海の男を気取ってみても、初めは〔ボーイ長〕と呼ばれ〔長〕は付いているが、仕事は皿洗い。1年もして後輩が入るとボーイ長は〔ロバス〕になる。それでもトイレ掃除が主。3年もして一人前の船員扱いだ。そこで勤務態度が認められると〔ヘッドセーラー〕になり、つぎに〔コーターマスター〕舵取り、その上に〔ストーキー〕があって倉庫係に就く。海上生活では重要な役目だ。さらにさらにランクアップして〔ボースン〕甲板長。ここまでは船員が努力で成れる位置だ。あとは資格試験を経て、まず〔アプさん〕と愛称される見習い航海士。さらに3等航海士、2等航海士、1等航海士。そしていよいよキャップテン・船長になる。私は琉球海運時代に1等航海士の資格を取得。1963年、県立沖縄水産高校の実習船翔南丸300トンに一等航海士、のちに船長として乗った。太平洋、大西洋、インド洋での実習は厳しかったが、生きているという実感があった。なにしろ〔若い命と夢〕を乗せているから緊張と充実の毎日だったねぇ」
喜納政宥はさらに語る。
「私のころとは制度も異なり、いまは在学中に免許試験が受けられるから資格取得も努力次第だし、実習船も大型化してクラスの名称も変わってきたようだ。その後、実習船から県の水産調査船に乗り換え、1999年42年間の船乗り生活を終え、定年で船を降り陸の河童になっているが現役時代、私が舵を取った翔南丸で実習を積んだ若者の中には、後に母校の校長に就任した子もいるし皆、海のように広い心で、少年のころに描いた夢を実現させている。このことで私の夢もある程度、達せられたかな。大した夢ではないがね」
いやいや、大した夢を果たした大した人生の達人として筆者は、喜納政宥と付き合っている。
喜納政宥
人生いろいろ夢いろいろ。
筆者は幼児のころ「大きくなったら陸軍大将になるッ」と言い切って両親を喜ばせたそうな。昭和18、9年のことだから責めないでほしい。
同じ幼児でも、今の子たちの夢は壮大だ。知人の孫7歳は「沖縄の海をもっともっとキレイにして、世界中の人を泳がせる。そうしたらノーベル賞がもらえる」と言い、今日も海で遊んでいる。7歳にしてノーベル賞を狙うとはッ!この子はきっとやり遂げるに違いない。50年後60年後「沖縄にノーベル賞受賞者が誕生する!」なんとすばらしいことか。その朗報に接する日を待つ。楽しみがまたひとつ増えた。
次号は2008年8月7日発刊です!
上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com
人が集まるとどうしても〔まとめ役〕が必要になってくる。その道に秀でた人は、自らの集団、団体、組織作りをして〔指導者〕になる例も少なくない。メンバー・スタッフもまた、指導者を見習って後継者と成るべく努力する。
例えば、普通にする就職にもそれは見られる。学校を卒業して、必ずしも自らが希望した職種に100%満たなくても、まずは仕事に就いたことを喜びとする。その喜びに浸っている間は昇進なぞ脳裏にはないが、仕事を覚えて自分の可能性と人生を意識しはじめると、1ランクでも上を目指すのは当然のことと言えるのではあるまいか。これも、まとめ役、指導者、後継者、経営者、専門家への道のひとつで、うまく行けばその人物をひと回りもふた回りも大きくするエネルギーになると思われる。
しかし、いかに才能豊かで周囲から〔優秀〕の評価を得、将来を属望されたとしてもそううまくいかないのも世の中である。
昔。
琉球国を仕切った名宰相具志頭親方蔡温〈ぐしちゃん うぇーかた さいおん。1682.9.5~1761.12.29〉のころ。首里の名家に生まれた池宮城青年は学力優秀、品行方正。いずれ「琉球国を動かす大人物になるだろう」というのが王府内での専らの評判であった。やがて複数の親方〈王府の大臣級の職名〉や親雲上〈ぺーちん。次官級〉の推挙があって、彼は遂に宰相蔡温の側近役に取り立てられた。人びとの期待は大きく、池宮城青年自身もそれに応えて忠実に職務を励行していた。しかし1年後、蔡温は彼を側近から外してしまった。
「これは、いかにッ!」
解せない処分に対して重臣たちは、その真意を蔡温にだした。蔡温は静かに答えた。
「なるほどこの若者は抜群に優秀で、与えられた職務は完璧に成した。このことは大いに認める。しかし、彼は王府の中枢にありながら、この国の将来について一言の提言も提案もなかった。いま琉球国に必要なのは、遺漏なく職務を遂行する若者ではなく、これからの琉球国はどうあるべきか、どう進むべきか、単なる夢でもよし。そのことを考え語る若い人材なのだ」
蔡温の判断を読者はどう受け取るか。賛否いずれもあり得るが、現代でも大企業であればあるほど〔夢を語る〕若者が多くはいないように思える、筆者が世間知らずに過ぎるか、単なる危惧・老婆心いや老爺心か。そうあってほしいが・・・・。
夢といえば。大きい小さいは別として、自分にとっての夢を果たした男がいる。
友人喜納政宥〈69歳〉。
「少年のころから海への憧れがあって、高校は迷わず県立水産高校に進み、卒業して琉球海運KKに就職。琉球丸、那覇丸、球陽丸に乗って世界の海を渡った。憧れの海の男を気取ってみても、初めは〔ボーイ長〕と呼ばれ〔長〕は付いているが、仕事は皿洗い。1年もして後輩が入るとボーイ長は〔ロバス〕になる。それでもトイレ掃除が主。3年もして一人前の船員扱いだ。そこで勤務態度が認められると〔ヘッドセーラー〕になり、つぎに〔コーターマスター〕舵取り、その上に〔ストーキー〕があって倉庫係に就く。海上生活では重要な役目だ。さらにさらにランクアップして〔ボースン〕甲板長。ここまでは船員が努力で成れる位置だ。あとは資格試験を経て、まず〔アプさん〕と愛称される見習い航海士。さらに3等航海士、2等航海士、1等航海士。そしていよいよキャップテン・船長になる。私は琉球海運時代に1等航海士の資格を取得。1963年、県立沖縄水産高校の実習船翔南丸300トンに一等航海士、のちに船長として乗った。太平洋、大西洋、インド洋での実習は厳しかったが、生きているという実感があった。なにしろ〔若い命と夢〕を乗せているから緊張と充実の毎日だったねぇ」
喜納政宥はさらに語る。
「私のころとは制度も異なり、いまは在学中に免許試験が受けられるから資格取得も努力次第だし、実習船も大型化してクラスの名称も変わってきたようだ。その後、実習船から県の水産調査船に乗り換え、1999年42年間の船乗り生活を終え、定年で船を降り陸の河童になっているが現役時代、私が舵を取った翔南丸で実習を積んだ若者の中には、後に母校の校長に就任した子もいるし皆、海のように広い心で、少年のころに描いた夢を実現させている。このことで私の夢もある程度、達せられたかな。大した夢ではないがね」
いやいや、大した夢を果たした大した人生の達人として筆者は、喜納政宥と付き合っている。
喜納政宥
人生いろいろ夢いろいろ。
筆者は幼児のころ「大きくなったら陸軍大将になるッ」と言い切って両親を喜ばせたそうな。昭和18、9年のことだから責めないでほしい。
同じ幼児でも、今の子たちの夢は壮大だ。知人の孫7歳は「沖縄の海をもっともっとキレイにして、世界中の人を泳がせる。そうしたらノーベル賞がもらえる」と言い、今日も海で遊んでいる。7歳にしてノーベル賞を狙うとはッ!この子はきっとやり遂げるに違いない。50年後60年後「沖縄にノーベル賞受賞者が誕生する!」なんとすばらしいことか。その朗報に接する日を待つ。楽しみがまたひとつ増えた。
次号は2008年8月7日発刊です!
上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com