2015 08 08(土)
あだち歴史資料館から歩いて行ける前橋空襲遺跡を2ヶ所ご紹介。
あだち歴史資料館から西へ3分程の場所にある旧安田銀行担保倉庫。
重厚なレンガ造りの倉庫は金融の担保に預かった乾繭・生糸・絹などを大切に保管した建物。
本来は2棟在りましたが、昭和20年8月5日(日)の前橋大空襲で北側(裏側)の1棟が焼失し、現在はご覧の南棟倉庫だけです。
倉庫は幅6間、長さ30間の大規模倉庫。日本製煉瓦で2階建て瓦葺きで建坪180坪、設計はフランス人技師と云われるが煉瓦の積み方はイギリス積みです。
国の有形文化財に指定され、又ぐんま絹遺産の一つにも認定されている歴史的建築物。(大正2年・1913年完成)
場所 前橋市住吉町2-10-2.
前橋大空襲の痕跡は倉庫建屋の裏側壁面に炎で黒焦げた跡として確認できます。70年後でも残っていますから凄い熱だった事が想像できます。
レンガ壁の真下に空襲時に使用された消火栓が残されています。
あだち歴史資料館から南西方向に2分ほど歩くと出会うのが前橋市民に愛されている清流“広瀬川”。
広瀬川に架けられた比刀根橋(ひとねばし・昭和8年完成)にも前橋空襲の痕跡が見られます。
橋歩道の縁石に穿たれた直径10cmの2個の穴は空襲爆撃で生じた弾痕跡なのです。(機銃掃射かも)
広瀬川の比刀根橋の北側たもとには前橋空襲の慰霊碑が建てられています。
この慰霊碑はこの場所に在った比刀根橋防空壕で亡くなった12名の霊を含む、市民535名の犠牲者を追悼する碑。(群馬県犠牲者1237名)
“前橋市戦災被爆者平和記念碑”と名付けられ昭和51年4月5日に建てられました。 場所 前橋市住吉町2-1-1.
防空壕に避難していた無辜の人々が8月5日夜、空襲の猛火で焼き殺されました・・・惨いことです。
比刀根橋防空壕の死者12名以外にもこの周囲で沢山の犠牲者が出たのです。
広瀬川の比刀根橋から見た空襲直後の前橋市中心街地。右の麻屋百貨店と土蔵倉が焼け残ったのみ!
昭和35年頃でしょうか・・・比刀根橋防空壕があった場所です。
アメリカ軍が空から撒布した宣伝ビラ。日本各地を空襲で破壊するので避難しろという親切な予告でもあります。
アメリカ爆撃機から投下される焼夷弾に日本が推奨する対抗する術は「火ばたき」と「バケツ消火」だけ。
油脂焼夷弾M69の強力な火力には全く役に立ちません。
一つの爆弾から38個の油脂焼夷弾筒が空中でバラバラに放出され、地上の家屋・人々の上に降り注ぎます。
戦争直前に布告された“我が家の防空二十則”には「弾も火も 一死奉公 何のその」とか「命令前 避難退去は 恥の恥」などと人命無視の標語も創られました。
空襲被害者は爆撃によるより、国の「逃げられない仕組み」(防空法)で殺された人のほうが多かったのでしょう。 空襲の犠牲者は全国で約60万人。
空襲の猛火炎に対する貧弱な消火作業で何千何万の人々が焼け死んだことやら・・・涙々。
焼夷弾爆撃の烈火には逃げるが一番! 民間の防空壕では蒸し焼き・酸欠窒息死が多発!とても防火どころではありません。
130806前橋空襲追悼HP
昭和18年2月 日本政府が発表した「米軍製 焼夷弾実験」。
http://osakanet.web.fc2.com/bokuho/syoidantest.html
焼夷弾の威力
何といっても平和が最高!! 戦前回帰を連想させる昨今のアベ政治・・・いかが思いますか?
2015 08 19(水)記。 前橋市 後
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おまけコーナー。
突然竜巻に遭遇! 白い車はどこへ・・・女性は何処から飛ばされてきた・・・!
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