三菱重工の健軍飛行機工場ができたのは、昭和19年になってからでした。
この方は、あの「引込み線」を使って通勤していたそうです。
川尻駅の体験は、本当に恐ろしいです。
女子挺身隊の思い出
一億一心、総突撃、世はまさに国を挙げて戦時一色の昭和19年3月、私達は八代高女を卒業しました。人手不足は私達の卒業を待っていたかのように卒業と同時に八代宮で戦勝祈願式がありました。
三菱熊本航空機、三菱長崎造船、山陽航空、三柴、国鉄、興人…・等の挺身隊として、或は代用教員として働く職場は違っても、ただお国のためにと東へ西へとそれぞれ巣立って行きました。私達三菱挺身隊は24 名、勇躍志願したものの卒業から4 ケ月間家庭待機させられました。今日か明日かと待っているうち、7 月22 日、やっと入所となりました。
家を離れるのが初めてで、希望と不安が交錯したものでした。工場はまだ建設工事進捗中のようで、家庭待機もそのせいであったのでしょう。
入所後3ケ月は訓練期間で秋津寮生活。健軍神杜の拝殿で訓話を聞いたり、座禅をしたりの日々でした。行動を共にした24 名も、やがて工機工場を主に、事務、金型、製図、倉庫等に配属されました。
§ 寮の出来ごと
入所数日にして思いもよらぬ悲しい出来ごとがありました。入寮前から羅病していたと思われる同僚が高熱におかされ、下痢が続いたのです。親もとを離れて、苦痛を訴える友の不欄さ、私達は交替で必死になって介抱しました。頭を冷やしたり、夜中にトイレまで背負って何回通ったことか、後日赤痢と診断されびっくりしたものでした。とうとうその友は若い命を終えてしまいました。私達は黒髪の火葬場まで霊柩車と同伴し、突然の死が悲しく泣けて泣けて仕方がなかったことが、今もまざまざと蘇がえります。当時の食糧事情からしても、私達の体力も十分とはいえなかったと思いますが、誰にも感染しなかったことが不忠議に思えてなりませんでした。
§ 寮の食事
忘れられないものの一つは寮の食事のことです。厨房でつくられた食事は馬車で寮まで運搬されていました。或る日厨房を覗いたことがありましたが、その釜の大きいこと、御飯を大釜からスコップで容器に移し換えていたのには驚きました。御飯はひじき入りの黒飯、更にこの中に大豆や切り干大根等が入っており米粒はどこに入っているのか解からない程でした。肉類といえば何の内臓なのか、繊毛のような、ビラビラのついた腸のようでもあり、犬肉ではないかと囁いたものでした。決して美味しいものではありませんでしたが、後では空腹も深刻で一匙でも多く食べたい思いが始終つきまとっていました。
会社から寮に帰って、何とか空腹を満たそうと健軍神杜の近くへ、或は木山方面まで買い出しに出かけた人もありました。茄がいた唐芋が主だったようです。夜、空襲警報が発令されると六嘉村の竹薮まで何回か走りました。寒くて冷たい夜、流れ星を見て遠く離れた家の事を
思い出して涙したこともありました。
§ 外出
入寮してケ月は家への帰省は許可されませんでした。しかしホームシックと空腹感は私達をますます無断帰宅へと拍車をかけました。一刻も早く家に帰りたい一念で、日曜の早朝、まだ星が輝いていました。
工事中のトイレ用に掘った穴から壁を抜けられることを知り、その穴にとび降り、そこから這い上って寮の外に出ました。まだ明けやらぬ道を走る様に急いだことを覚えています。八代行きの汽車に乗るために駅まで歩きました。その駅が水前寺駅だったか記憶がありません。又、2時頃に寮を出たという友は熊本駅まで歩いたようです。その人達は八代から更に乗換えなければならないので一足先に出たのでしょう。そして彼女らが肥薩線の段駅に着いたのが6 時頃であったと聞きました。家に帰りたい一途な気持が道の暗さ、恐ろしさも全て気にせず突拍子の行動をとらせたのでしょう。
わずか数時間の在宅で14 時頃寮に帰る準備をしていた友は丁度兄さんの戦死公報に接し、その日に帰れず、翌日寮に帰ったので無断外泊がばれて新谷寮長と吉村寮母に随分叱られたとも話していました。
§ 寮での面会
我が家から母や、姉妹が面会に来てくれました。尋ね、尋ねて馬車の轍の深い秋津のガタゴト道を木炭自動車のバスに乗って来てくれました。バスは何回も薪を注いだそうです。とうとう乗客が降りて後押しする場面もあったとか。手作りの布団や饅頭などが届いた時は、ただ嬉しくて何の話をしたのか全然覚えていません。面会に来るのもどんなに大変だったか、今改めて当時の話を聞くにつけ感激しているのです。お互い顔を会わすなり、私が家に居た時より、げっそり痩せて頬がこけており驚いた、と姉が言っておりました。
§ 工場の空襲
私は第2 倉庫でした。空襲の時、健軍神杜の方へ退避したり、すぐ前の深い土手下等に逃げており余り恐ろしいとは思いませんでした。
その土手の上を白いマフラーを巻いた航空隊の人達が通り過ぎて行ったのが今でも鮮やかに思い出されます。いずれ死に赴く特攻隊の人であろうといつまでも見送ったものでした。
§ 家から通勤、工場疎開
訓練期間が終り、大分勝手がわかって来た頃から寮を出て自宅から通勤する人も出てきました。私もその一人です。朝4 時頃母に起こしてもらい、4 時半頃に家を出て5 時の汽車に乗りました。私は駅の近くでしたので楽な方でしたが駅から遠い人は随分早く家を出られたよう
です。
列車は三菱の通勤専用列車の感があり、顔見知りの徴用のおじさんや、学徒動員の生徒さん等で八代駅でもう満員になりました。熊本駅に着くと別のプラットホームに待っている水前寺行きに乗換えるため、往きも帰りも走って乗り継ぎました。汽車を降りるおじさん達について私も、まだ完全に止っていないうちにとび降りて転び、立ち上れない程腰を打ちつけたのが今でも痛みます。水前寺駅から工場へ引込線がありました。木組のようなプラットホームがあって沢山の人達が降り、工場の門に吸い込まれて行きました。引込線の車輌は貨車でした。星を仰いで我が家を出て工場に着いたものの仕事は毎日倉庫の掃除ばかりでした。
20年4月頃、私達は江津湖に近い農業学校に疎開しました。どの様な道順で農業学校まで通ったのか全て記憶がありません。疎開先での仕事もトイレの掃除しか覚えていません。通勤途上で空襲警報がかゝり友達と二人で歩いていましたが逃げ場がなく、河原町辺りだったでし
ょうか、大きな酒屋か醤油屋の広い土間に私達二人が十分に入れるような大きな鍋があり、それを被って警報の解除を恐る恐る待ちました。
§ グラマン川尻駅機銃掃射
川尻駅での機銃掃射は本当に恐ろしかった。いっものように5時発の通勤列車に乗り、列車が川尻駅に着いた時です。突然グラマン4機が私達の列車を銃撃してきました。どうして汽車から降りたのか、我に返った時は待合室の椅子の下に這いっくぼっていました。
その時、頭の右上部がピカッと光り、機銃の弾が落ちて来ましたが、幸い怪我もなく、友達と二人で銃声の止んだ間に駅を離れようと、駅前広場の大木の下に移動しました。そこから汽車をみると機関車が白い蒸気を噴いていました。
グラマンは再びやって来ました。
逃げた場所の近くにある工場を狙っているとのことで、弾の音はバラバラと無気味に響き頭上のトタン屋根を叩いている様に感じました。やがて音が止み私達も国道に向けて歩きましたが、立ち止ると膝がガクガク震えるのです。
もう会社に行く元気もなく、家へ帰る為に再び汽車に乗る気も起らず、国道を通る車に乗せて貰おうと手を上げましたが駄目でした。そのうち、あちこちに逃げていた友達がどこからともなく集り、お互に無事を確かめあって喜びを分ちました。
その時、がらがらの下り八代行が到着したのでそれに乗って八代へ帰りました。この時、同僚の一人が膝に貫通銃創を受けたことを後日知りました。
家に帰り着くまで顔は蒼ざめていたらしく家族を驚かせました。以来会社へも行かなかったように思います。長崎の原爆の時も、終戦の詔勅も家の防空壕で迎えました。
健軍の工場へ通っていた時、先の引込線に乗らなかった時は水前寺から健軍神社前の八丁馬場を通り、神社の右側を廻って工場に達するコースもよく走りました。その時、八丁馬場の北側の薮影にグリーンの屋根の西洋館が見えました。このモダンな西洋館は何だろうと考えな
がら走ったものでしたが、後に私はそこに勤務することになり深い縁に驚いています。それは児童福祉施設「慈愛園」です。そして厚生年金のお世話になる時が来て、加入期間をコンピュータで出してもらいましたら資格取得日は三菱勤務の日になっていました。本当に驚きました。
あの終戦のゴタゴタの時に、大勢の従業員にも拘らずきちんと残務整理が為されていたこと、さすが三菱だと改めて感心致しました。
八代高女 頼藤和代さんの手記
■関連記事
最近読んでいるもの 『健軍三菱物語』
女子挺身隊 のこと
女子挺身隊 のこと その2
女子挺身隊 のこと その3
女子挺身隊 のこと その4
女子挺身隊 のこと その5
この方は、あの「引込み線」を使って通勤していたそうです。
川尻駅の体験は、本当に恐ろしいです。
女子挺身隊の思い出
一億一心、総突撃、世はまさに国を挙げて戦時一色の昭和19年3月、私達は八代高女を卒業しました。人手不足は私達の卒業を待っていたかのように卒業と同時に八代宮で戦勝祈願式がありました。
三菱熊本航空機、三菱長崎造船、山陽航空、三柴、国鉄、興人…・等の挺身隊として、或は代用教員として働く職場は違っても、ただお国のためにと東へ西へとそれぞれ巣立って行きました。私達三菱挺身隊は24 名、勇躍志願したものの卒業から4 ケ月間家庭待機させられました。今日か明日かと待っているうち、7 月22 日、やっと入所となりました。
家を離れるのが初めてで、希望と不安が交錯したものでした。工場はまだ建設工事進捗中のようで、家庭待機もそのせいであったのでしょう。
入所後3ケ月は訓練期間で秋津寮生活。健軍神杜の拝殿で訓話を聞いたり、座禅をしたりの日々でした。行動を共にした24 名も、やがて工機工場を主に、事務、金型、製図、倉庫等に配属されました。
§ 寮の出来ごと
入所数日にして思いもよらぬ悲しい出来ごとがありました。入寮前から羅病していたと思われる同僚が高熱におかされ、下痢が続いたのです。親もとを離れて、苦痛を訴える友の不欄さ、私達は交替で必死になって介抱しました。頭を冷やしたり、夜中にトイレまで背負って何回通ったことか、後日赤痢と診断されびっくりしたものでした。とうとうその友は若い命を終えてしまいました。私達は黒髪の火葬場まで霊柩車と同伴し、突然の死が悲しく泣けて泣けて仕方がなかったことが、今もまざまざと蘇がえります。当時の食糧事情からしても、私達の体力も十分とはいえなかったと思いますが、誰にも感染しなかったことが不忠議に思えてなりませんでした。
§ 寮の食事
忘れられないものの一つは寮の食事のことです。厨房でつくられた食事は馬車で寮まで運搬されていました。或る日厨房を覗いたことがありましたが、その釜の大きいこと、御飯を大釜からスコップで容器に移し換えていたのには驚きました。御飯はひじき入りの黒飯、更にこの中に大豆や切り干大根等が入っており米粒はどこに入っているのか解からない程でした。肉類といえば何の内臓なのか、繊毛のような、ビラビラのついた腸のようでもあり、犬肉ではないかと囁いたものでした。決して美味しいものではありませんでしたが、後では空腹も深刻で一匙でも多く食べたい思いが始終つきまとっていました。
会社から寮に帰って、何とか空腹を満たそうと健軍神杜の近くへ、或は木山方面まで買い出しに出かけた人もありました。茄がいた唐芋が主だったようです。夜、空襲警報が発令されると六嘉村の竹薮まで何回か走りました。寒くて冷たい夜、流れ星を見て遠く離れた家の事を
思い出して涙したこともありました。
§ 外出
入寮してケ月は家への帰省は許可されませんでした。しかしホームシックと空腹感は私達をますます無断帰宅へと拍車をかけました。一刻も早く家に帰りたい一念で、日曜の早朝、まだ星が輝いていました。
工事中のトイレ用に掘った穴から壁を抜けられることを知り、その穴にとび降り、そこから這い上って寮の外に出ました。まだ明けやらぬ道を走る様に急いだことを覚えています。八代行きの汽車に乗るために駅まで歩きました。その駅が水前寺駅だったか記憶がありません。又、2時頃に寮を出たという友は熊本駅まで歩いたようです。その人達は八代から更に乗換えなければならないので一足先に出たのでしょう。そして彼女らが肥薩線の段駅に着いたのが6 時頃であったと聞きました。家に帰りたい一途な気持が道の暗さ、恐ろしさも全て気にせず突拍子の行動をとらせたのでしょう。
わずか数時間の在宅で14 時頃寮に帰る準備をしていた友は丁度兄さんの戦死公報に接し、その日に帰れず、翌日寮に帰ったので無断外泊がばれて新谷寮長と吉村寮母に随分叱られたとも話していました。
§ 寮での面会
我が家から母や、姉妹が面会に来てくれました。尋ね、尋ねて馬車の轍の深い秋津のガタゴト道を木炭自動車のバスに乗って来てくれました。バスは何回も薪を注いだそうです。とうとう乗客が降りて後押しする場面もあったとか。手作りの布団や饅頭などが届いた時は、ただ嬉しくて何の話をしたのか全然覚えていません。面会に来るのもどんなに大変だったか、今改めて当時の話を聞くにつけ感激しているのです。お互い顔を会わすなり、私が家に居た時より、げっそり痩せて頬がこけており驚いた、と姉が言っておりました。
§ 工場の空襲
私は第2 倉庫でした。空襲の時、健軍神杜の方へ退避したり、すぐ前の深い土手下等に逃げており余り恐ろしいとは思いませんでした。
その土手の上を白いマフラーを巻いた航空隊の人達が通り過ぎて行ったのが今でも鮮やかに思い出されます。いずれ死に赴く特攻隊の人であろうといつまでも見送ったものでした。
§ 家から通勤、工場疎開
訓練期間が終り、大分勝手がわかって来た頃から寮を出て自宅から通勤する人も出てきました。私もその一人です。朝4 時頃母に起こしてもらい、4 時半頃に家を出て5 時の汽車に乗りました。私は駅の近くでしたので楽な方でしたが駅から遠い人は随分早く家を出られたよう
です。
列車は三菱の通勤専用列車の感があり、顔見知りの徴用のおじさんや、学徒動員の生徒さん等で八代駅でもう満員になりました。熊本駅に着くと別のプラットホームに待っている水前寺行きに乗換えるため、往きも帰りも走って乗り継ぎました。汽車を降りるおじさん達について私も、まだ完全に止っていないうちにとび降りて転び、立ち上れない程腰を打ちつけたのが今でも痛みます。水前寺駅から工場へ引込線がありました。木組のようなプラットホームがあって沢山の人達が降り、工場の門に吸い込まれて行きました。引込線の車輌は貨車でした。星を仰いで我が家を出て工場に着いたものの仕事は毎日倉庫の掃除ばかりでした。
20年4月頃、私達は江津湖に近い農業学校に疎開しました。どの様な道順で農業学校まで通ったのか全て記憶がありません。疎開先での仕事もトイレの掃除しか覚えていません。通勤途上で空襲警報がかゝり友達と二人で歩いていましたが逃げ場がなく、河原町辺りだったでし
ょうか、大きな酒屋か醤油屋の広い土間に私達二人が十分に入れるような大きな鍋があり、それを被って警報の解除を恐る恐る待ちました。
§ グラマン川尻駅機銃掃射
川尻駅での機銃掃射は本当に恐ろしかった。いっものように5時発の通勤列車に乗り、列車が川尻駅に着いた時です。突然グラマン4機が私達の列車を銃撃してきました。どうして汽車から降りたのか、我に返った時は待合室の椅子の下に這いっくぼっていました。
その時、頭の右上部がピカッと光り、機銃の弾が落ちて来ましたが、幸い怪我もなく、友達と二人で銃声の止んだ間に駅を離れようと、駅前広場の大木の下に移動しました。そこから汽車をみると機関車が白い蒸気を噴いていました。
グラマンは再びやって来ました。
逃げた場所の近くにある工場を狙っているとのことで、弾の音はバラバラと無気味に響き頭上のトタン屋根を叩いている様に感じました。やがて音が止み私達も国道に向けて歩きましたが、立ち止ると膝がガクガク震えるのです。
もう会社に行く元気もなく、家へ帰る為に再び汽車に乗る気も起らず、国道を通る車に乗せて貰おうと手を上げましたが駄目でした。そのうち、あちこちに逃げていた友達がどこからともなく集り、お互に無事を確かめあって喜びを分ちました。
その時、がらがらの下り八代行が到着したのでそれに乗って八代へ帰りました。この時、同僚の一人が膝に貫通銃創を受けたことを後日知りました。
家に帰り着くまで顔は蒼ざめていたらしく家族を驚かせました。以来会社へも行かなかったように思います。長崎の原爆の時も、終戦の詔勅も家の防空壕で迎えました。
健軍の工場へ通っていた時、先の引込線に乗らなかった時は水前寺から健軍神社前の八丁馬場を通り、神社の右側を廻って工場に達するコースもよく走りました。その時、八丁馬場の北側の薮影にグリーンの屋根の西洋館が見えました。このモダンな西洋館は何だろうと考えな
がら走ったものでしたが、後に私はそこに勤務することになり深い縁に驚いています。それは児童福祉施設「慈愛園」です。そして厚生年金のお世話になる時が来て、加入期間をコンピュータで出してもらいましたら資格取得日は三菱勤務の日になっていました。本当に驚きました。
あの終戦のゴタゴタの時に、大勢の従業員にも拘らずきちんと残務整理が為されていたこと、さすが三菱だと改めて感心致しました。
八代高女 頼藤和代さんの手記
■関連記事
最近読んでいるもの 『健軍三菱物語』
女子挺身隊 のこと
女子挺身隊 のこと その2
女子挺身隊 のこと その3
女子挺身隊 のこと その4
女子挺身隊 のこと その5
おそらく。
いろいろ書いていただいたのですが、いただいたコメントと私の書いた記事との関連が今ひとつよくわかりません。よかったら、なぜ、この記事にコメントいただいたのか教えてください。
それと、応援を・・・とのことでしたが、リンクがないので、困りました。
申し訳ありません。
東京中の夜空が赤く染まったと聞かされました
普通の人の体験談が一番臨場感がありますね
恵まれた時代に生きられること誰に感謝したらよいのか 誰に恩返しをしたら良いのか そんな気持ちに成りました 今日も真面目なゴジでした
以前、埼玉県三郷の取引先の方に
「3/10の空襲のとき、三郷から東京が真っ赤に燃えているのを見た」という話を聞きました。
普通の人の体験談、特に知っている人の体験は、凄みをもって心にドカンと響きます。
今ここでおきたら、私もきっと体験することになるんだと言うことがリアルに感じられるからでしょうね。
最も恵まれた時代と恵まれた土地に生きられることを感謝します。
まじめなコメントにも感謝です。
何の気なしに叔母の名前で検索していたら、この記事を見つけたので驚きました。
この手記は私の叔母の物だと思います。
まだ幼かった頃少しだけ戦争の話を聞いた記憶があります。
この手記を見た感じ、幼いときに聞いたのは川尻銃撃?の話だったのだろうなぁと読みながら振り返っていました。
しっかりとは覚えていませんが、叔母がとても怖かったと言っていたのは、はっきりと覚えています。
戦争を実際に経験された方々の年齢が高齢化して、語り継がれる機会も少なくなりつつありますが、叔母を含め実際に戦争を経験された方々は、どんなに辛く苦しかっただろうかと胸を締め付けられるような思いがしました。
これを読んで改めて、戦争のない平和な世の中の大切さ、というのを語り継いで、更に守っていかなければならないと感じました。
ゆう(17)
勝手に掲載してしまってすみません。
コメントどうもありがとうございます。
叔母様から当時のお話を聞いていらっしゃったのですね。
こうやって、書かれたものを読ませていただくだけでも生々しくかんじられますが、実際にお身内の話としてお聞きになると、怖さもいや増すのではないかと思います。
ここに掲載させていただいたのも、私自身が読んだあといろいろ思いが深まり、周りの人たちにも読んでほしいと思ったからです。
おば様のこの手記の存在はご存知でしたか?
健軍三菱物語と言う本に収められています。
実物を拝見したことはありませんが、健軍のホームページに抄録が載っていますので、お知らせいたします。
たぶん、熊本の図書館などにはあるのではないかと思います。
あるいは、手記を書かれた方のお手元にはお持ちなのかもしれないですが。
http://www.wakabauu.net/
新着情報のところに「健軍三菱物語」とありますので、そこからご覧ください。
ちなみに健軍は私の地元です。