健軍にあった寮「秋津寮」のあったところに、戦後私の祖父母は引っ越してきました。
昭和何年くらいのことでしょう?
確か父はそこから高校に通ったはずなので・・・昭和30年代初頭ですね。
こんど父に聞いてみよう。
長崎に落とされた原爆、たしか午前11時ごろだったはずですが、夕方になっても燃え続けていたんですね。
熊本からもそれが見えていたのです。
女子挺身隊の想い出
私は工機工場の事務係として配属になりました。当時の課長が田澤貞助さん、そして職員の若い伊藤さん、ご年輩の飯尾さん、名古屋から来られた女性の滝川さん、その他一般工、徴用工、本渡高女、菊池高女の挺身隊等あちこちから来ている人達がいました。とても良い雰囲気の中で仕事が出来ました。
同じ挺身隊でも現場に配属され夜勤をさせられた人、一日中立ちづくめで機械にとり組む人に申し訳けない思いがしたものです。当時工機工場には2000 人位居たのではないかと思います。
仕事の内容は勤怠係で入退場、出勤状況を憲兵隊が詰める監督官室に毎日報告に行きました。監督官室に入る時はドアのノックから一挙一動、それは巌しいものでした。現場に憲兵の姿が見えるとみんな恐れていました。
“憲兵に非ずんば人にあらず”と言った態度に見えました。それから何カ月か経って各工場の勤怠係は労務課に集約移動となりました。当時の課長が高城さんだったと患います。
やがて戦局も険しくなり私たち八代高女の挺身隊も疎開先へ散って、互に会う機会もなくなりました。疎開先は熊農、熊工専、隈府、松橋高女、宇土等、様々であったようです。
20年3月、私と同僚2人は宇土工場に参りました。宇土工場は市内の真中にあり、萩原さんという酒屋さんの蔵を改造したところでした。一階は薄暗い裸電球の下に旋盤が何台か据えつけられている程度で健軍工場に比べたら細々としたものでした。二階が事務所になっており、工場長を当時は群長さんと呼んでいたようでした。現在田尻町在住の浅井宗光さんといい仕事には厳しく、人間的にはとても優しい方でした。出勤表は何日かに一回、健軍(労務課)まで届けて居られた様です。現在、日奈久在住の白浜芳太郎さんでした。
又、20年6月頃、宮崎工専からの学徒動員で片野冨志(鹿児島市在住)、外囲巧(福岡県粕屋郡在住)、黒木康秀(宮崎県在住)各氏が来られ、事務所も賑やかになりました。
健軍工場に居る間は寮生活でしたが、宇土工場に疎開してからは家から通勤となり嬉しくて嬉しくて仕方ありませんでした。
然し、当時は車も、バスも通っておらず、母は雨の日も、風の日も毎朝5時から人家のない球磨川べりの山道を4k程歩いて八代駅まで私を送り、そして又歩いて帰っておりました。その母も一昨年85 才で亡くなりましたが、あの頃の母の姿が私の瞼から離れることはありません。
§ 空襲
工機工場にいた頃、昼間に空襲警報が発令され、全工場従業員が一勢に正門に押しかけ、人の波、波…で遠くに爆音が聞えるのに一歩も前進せず、健軍神杜の森や、麦畑の深い土手下の防空壕まで辿り着くのに大混雑したことがありました。あの時、機銃掃射でもうけたらひとたまりもなかったでしょう。
20年3月、前日に降った雪がコチコチに凍りついて冷気が肌をさす冷たい夜に空襲警報が発令され、秋津寮から六嘉村の竹薮の防空壕まで走りました。
私達の頭上から低空飛行で工場を集中攻撃しました。本当に恐ろしかったことを思い出します。その時、工機工場の隣にありました機械工場が被害を受け、従業員がなくなられたと聞きました。健軍は阿蘇から吹き下す風が冷く、寮には暖房の設備もなく、両手の霜やけがくずれ、その傷あとが今も右手に深く残り、手を見る度に、寒くて、辛かった健軍の寮生活を思い出します。
川尻駅が機銃掃射を受けた頃、私は宇土工場の二階におりました。爆音が遠く南の方に聞こえるので、東海電極、田浦工場に学徒動員として行っている弟のことを案じて窓から眺めていると、その瞬間、私達の上にグラマンが…・パチパチ、バリバリ、ヒュンヒュン‥それはもう何と表現したらよいのか生きた心地がしませんでした。階下の人は防空壕へ飛び込み、下に降りて来いと叫ぶのですが、全くその余裕すらありませんでした。5 ~ 6 人が、それぞれの机の下に耳を押え、伏せておりました。耳をつんざく様な炸裂音、屋根が吹きとぶような爆風、窓を明けていたので機内から私達の姿が見えたのか、超低空飛行で、何回も、何回も集中的にやって来ました。一寸静かになったので頭を上げてみたら近くの日本合成宇土工場を攻撃していました。やれやれと思っていた矢先、再び私達の工場を襲撃し始めました。この間、どの位の時間だったでしょうか。まさに生地獄、表現の仕様のない恐ろしい体験でした。
敵機が去って我に返ると、下の防空壕には何発かの弾が当っておりましたが、幸い人には被害はありませんでした。隣の民家の人が何人か亡くなられたと聞きました。宇土駅もその時焼失したのではなかったかと思います。
8 月9 日、艦載機も頻繁に来襲し、汽車も延着の連続、夕方になってやっと来た貨物列車に沢山の人が乗っておりました。その貨車は屋根も無ければ、手すりもない原木を運ぶ貨車で、押せば振り落される様な貨車に宇土駅から乗り風に吹かれながら、西の空を眺めていると、彼方に夕焼けの様なオレンジ色の輝きが目に入りました。それが長崎の原子爆弾でした。
終戦の日、朝から何故か艦載機のことも気にならない-いっもと違った静かな日でした。宇土工場階下の旋盤の間に全員が整列して玉音放送を拝聴しました。ガアガアと雑音が入って十分聞きとれませんでしたが、その主旨は解りました。その時、私の頭にまっ先に浮んだのは戦死した兄でした。大学を卒業したばかりで長髪をおとし丸坊主になって出征していった兄、勝つことのみを信じて26 才の生涯を国に捧げた兄、その死が犬死ではなかったかと涙が溢れた日を今も忘れることはありません。
八代高女 宇野美代子さんの手記
■関連記事
最近読んでいるもの 『健軍三菱物語』
女子挺身隊 のこと
女子挺身隊 のこと その2
女子挺身隊 のこと その3
女子挺身隊 のこと その4
女子挺身隊 のこと その5
昭和何年くらいのことでしょう?
確か父はそこから高校に通ったはずなので・・・昭和30年代初頭ですね。
こんど父に聞いてみよう。
長崎に落とされた原爆、たしか午前11時ごろだったはずですが、夕方になっても燃え続けていたんですね。
熊本からもそれが見えていたのです。
女子挺身隊の想い出
私は工機工場の事務係として配属になりました。当時の課長が田澤貞助さん、そして職員の若い伊藤さん、ご年輩の飯尾さん、名古屋から来られた女性の滝川さん、その他一般工、徴用工、本渡高女、菊池高女の挺身隊等あちこちから来ている人達がいました。とても良い雰囲気の中で仕事が出来ました。
同じ挺身隊でも現場に配属され夜勤をさせられた人、一日中立ちづくめで機械にとり組む人に申し訳けない思いがしたものです。当時工機工場には2000 人位居たのではないかと思います。
仕事の内容は勤怠係で入退場、出勤状況を憲兵隊が詰める監督官室に毎日報告に行きました。監督官室に入る時はドアのノックから一挙一動、それは巌しいものでした。現場に憲兵の姿が見えるとみんな恐れていました。
“憲兵に非ずんば人にあらず”と言った態度に見えました。それから何カ月か経って各工場の勤怠係は労務課に集約移動となりました。当時の課長が高城さんだったと患います。
やがて戦局も険しくなり私たち八代高女の挺身隊も疎開先へ散って、互に会う機会もなくなりました。疎開先は熊農、熊工専、隈府、松橋高女、宇土等、様々であったようです。
20年3月、私と同僚2人は宇土工場に参りました。宇土工場は市内の真中にあり、萩原さんという酒屋さんの蔵を改造したところでした。一階は薄暗い裸電球の下に旋盤が何台か据えつけられている程度で健軍工場に比べたら細々としたものでした。二階が事務所になっており、工場長を当時は群長さんと呼んでいたようでした。現在田尻町在住の浅井宗光さんといい仕事には厳しく、人間的にはとても優しい方でした。出勤表は何日かに一回、健軍(労務課)まで届けて居られた様です。現在、日奈久在住の白浜芳太郎さんでした。
又、20年6月頃、宮崎工専からの学徒動員で片野冨志(鹿児島市在住)、外囲巧(福岡県粕屋郡在住)、黒木康秀(宮崎県在住)各氏が来られ、事務所も賑やかになりました。
健軍工場に居る間は寮生活でしたが、宇土工場に疎開してからは家から通勤となり嬉しくて嬉しくて仕方ありませんでした。
然し、当時は車も、バスも通っておらず、母は雨の日も、風の日も毎朝5時から人家のない球磨川べりの山道を4k程歩いて八代駅まで私を送り、そして又歩いて帰っておりました。その母も一昨年85 才で亡くなりましたが、あの頃の母の姿が私の瞼から離れることはありません。
§ 空襲
工機工場にいた頃、昼間に空襲警報が発令され、全工場従業員が一勢に正門に押しかけ、人の波、波…で遠くに爆音が聞えるのに一歩も前進せず、健軍神杜の森や、麦畑の深い土手下の防空壕まで辿り着くのに大混雑したことがありました。あの時、機銃掃射でもうけたらひとたまりもなかったでしょう。
20年3月、前日に降った雪がコチコチに凍りついて冷気が肌をさす冷たい夜に空襲警報が発令され、秋津寮から六嘉村の竹薮の防空壕まで走りました。
私達の頭上から低空飛行で工場を集中攻撃しました。本当に恐ろしかったことを思い出します。その時、工機工場の隣にありました機械工場が被害を受け、従業員がなくなられたと聞きました。健軍は阿蘇から吹き下す風が冷く、寮には暖房の設備もなく、両手の霜やけがくずれ、その傷あとが今も右手に深く残り、手を見る度に、寒くて、辛かった健軍の寮生活を思い出します。
川尻駅が機銃掃射を受けた頃、私は宇土工場の二階におりました。爆音が遠く南の方に聞こえるので、東海電極、田浦工場に学徒動員として行っている弟のことを案じて窓から眺めていると、その瞬間、私達の上にグラマンが…・パチパチ、バリバリ、ヒュンヒュン‥それはもう何と表現したらよいのか生きた心地がしませんでした。階下の人は防空壕へ飛び込み、下に降りて来いと叫ぶのですが、全くその余裕すらありませんでした。5 ~ 6 人が、それぞれの机の下に耳を押え、伏せておりました。耳をつんざく様な炸裂音、屋根が吹きとぶような爆風、窓を明けていたので機内から私達の姿が見えたのか、超低空飛行で、何回も、何回も集中的にやって来ました。一寸静かになったので頭を上げてみたら近くの日本合成宇土工場を攻撃していました。やれやれと思っていた矢先、再び私達の工場を襲撃し始めました。この間、どの位の時間だったでしょうか。まさに生地獄、表現の仕様のない恐ろしい体験でした。
敵機が去って我に返ると、下の防空壕には何発かの弾が当っておりましたが、幸い人には被害はありませんでした。隣の民家の人が何人か亡くなられたと聞きました。宇土駅もその時焼失したのではなかったかと思います。
8 月9 日、艦載機も頻繁に来襲し、汽車も延着の連続、夕方になってやっと来た貨物列車に沢山の人が乗っておりました。その貨車は屋根も無ければ、手すりもない原木を運ぶ貨車で、押せば振り落される様な貨車に宇土駅から乗り風に吹かれながら、西の空を眺めていると、彼方に夕焼けの様なオレンジ色の輝きが目に入りました。それが長崎の原子爆弾でした。
終戦の日、朝から何故か艦載機のことも気にならない-いっもと違った静かな日でした。宇土工場階下の旋盤の間に全員が整列して玉音放送を拝聴しました。ガアガアと雑音が入って十分聞きとれませんでしたが、その主旨は解りました。その時、私の頭にまっ先に浮んだのは戦死した兄でした。大学を卒業したばかりで長髪をおとし丸坊主になって出征していった兄、勝つことのみを信じて26 才の生涯を国に捧げた兄、その死が犬死ではなかったかと涙が溢れた日を今も忘れることはありません。
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