半七捕物帳に出てくる江戸の場所を「江戸名所図会」などの絵と現代(といってもこの本が書かれた1999年ころ)の東京の写真と比べながらたどっていく本。本文は半七捕物帳で江戸の風物が描かれている部分の抜粋。
楽しい!!
場所が特定できないところもかなり推理で補ってあるし、昔の芝居小屋や店、町の名前など今ではもう残っていないものについては、現在の住所表示まで載せてある親切ぶり。
さて、私去年まで大田区に住んでいて毎年初詣には矢口にある「新田神社」におまいりしていました。半七捕物帳の「大森の鶏」という話にこの神社が登場します。関係あるとこだけ少し抜粋引用します。
「名は……八さんといっていますが、八蔵か八助か判りません。なんでも矢口の方から来るのだそうで……」
「矢口か。矢口の渡しなら六蔵でありそうなものだが……」と、庄太は笑った。
「矢口か。矢口の渡しなら六蔵でありそうなものだが……」と、庄太は笑った。
※平賀源内作と言われる「神霊矢口渡」という歌舞伎があるので、矢口の話は江戸の人々にもおなじみだったのでしょう。六蔵は新田義興公をだまし討ちにする船頭。
「いっそ矢口へ行ってみましょうか。大森のかみさんは曖昧なことを云っていましたが、ほかの女中にカマをかけて、鶏を売りに来た奴の居所いどこをちゃんと突き留めて来ました。そいつは矢口の新田神社の近所にいる八蔵という奴だそうです」
「矢切で死んだ奴の詮議に矢口へ行く……。矢の字尽づくしも何かの因縁かも知れねえ。おまけにどっちも渡し場だ」と、半七は笑った。「じゃあ気の毒だが矢口へ行って、あの鶏はどこで買ったのか、調べてくれ。こうなったら、ちっとぐらい手足を働かせても無駄にゃあなるめえ」
「そうです、そうです。こいつは何か引っかかりそうですよ。だが、これから矢口までは行かれねえから、あしたにしましょう」
なにかの期待をいだいて、庄太は威勢よく帰った。明くる日も寒い風が吹いたので、庄太も定めて弱っているだろうと思っていると、果たしてその日の灯ひともし頃に、彼はふるえながら引き上げて来た。
「矢口へ行って、八蔵という奴の家うちをさがし当てました。あの鶏はやっぱり海保寺門前の桂庵の家で買ったということですから、鳥亀の女房が売ったに相違ありません」
八蔵は農家の伜であるが、家には兄弟が多いので、彼は農業の片手間に飼い鶏どりや家鴨あひるなどを売り歩いていた。大きい笊に麻縄の網を張ったような鳥籠を天秤棒に担かついで、矢口の村から余り遠くない池上、大森、品川のあたりを廻っていたのである。
「矢切で死んだ奴の詮議に矢口へ行く……。矢の字尽づくしも何かの因縁かも知れねえ。おまけにどっちも渡し場だ」と、半七は笑った。「じゃあ気の毒だが矢口へ行って、あの鶏はどこで買ったのか、調べてくれ。こうなったら、ちっとぐらい手足を働かせても無駄にゃあなるめえ」
「そうです、そうです。こいつは何か引っかかりそうですよ。だが、これから矢口までは行かれねえから、あしたにしましょう」
なにかの期待をいだいて、庄太は威勢よく帰った。明くる日も寒い風が吹いたので、庄太も定めて弱っているだろうと思っていると、果たしてその日の灯ひともし頃に、彼はふるえながら引き上げて来た。
「矢口へ行って、八蔵という奴の家うちをさがし当てました。あの鶏はやっぱり海保寺門前の桂庵の家で買ったということですから、鳥亀の女房が売ったに相違ありません」
八蔵は農家の伜であるが、家には兄弟が多いので、彼は農業の片手間に飼い鶏どりや家鴨あひるなどを売り歩いていた。大きい笊に麻縄の網を張ったような鳥籠を天秤棒に担かついで、矢口の村から余り遠くない池上、大森、品川のあたりを廻っていたのである。
新田神社は江戸じゃないけど、この本にもちゃんと出てました。なじみの場所が出てくるとうれしくなっちゃいます。
「新田明神社」
江戸時代らしくお寺も一緒にあります~真福寺。
新田神社は、新田義貞の次男義興公の怨霊を慰めるための社で、本殿の裏には義興公の塚があります。上の絵で丸く竹が生っている部分。この塚、もちろん今もあります。そこに生える笹が片葉になるという伝説もある・・・。
GoogleEarthで同じ角度から俯瞰した現在の新田神社。
周りは家がびっしり。
新田義興公の時代には新田神社のすぐ裏が多摩川で「矢口の渡し」があったといわれていますが、いまの多摩川ははるか向こうに・・・。
はじめは図書館で借りてきたのですが、
「これは永久保存だ!」と思ったので、アマゾンで買いました。