ウン十年生きてきて、私の生き方のスタイルは「好きに生きる」ことに集約されると思う時がある。
モチロン、誰でも、結局は「好きなように」生きてるんだろうケド。
それしかできないし。
それがその人の人生だから。
でもそれを、「意識的に」やっていきたい。
基本として、自分が「イヤだな」と思うことはしない。
好きな人とだけ付き合う。
人との付き合い方にも、自分なりのバランスと距離感を持って、主導権(主体性)は手放さない。
仕事をしていると、イヤでもやらなきゃいけないこともある。
そんなに好きじゃない人とも付き合っていかなきゃいけないこともある。
それは仕方ないと思っている。
大きな「やりたいこと」のために必要な、ちいさな「やなこと」はやむを得ない。
それと家族に対しては縁は切れないのだから、多少気持ちに負担があってもそこはガマン。なんていう場面もある。
それは、人間として受け入れなきゃいけないこと。
でもそのほかのことは、「好きなように生きている」という、実感を持って過ごしたい。自分の人生に責任を持つためにも。
私は寅さん映画が好きで、寅さんを演じている渥美清氏にも興味がある。
渥美清という人は、人との距離を厳密に自分に課した人らしい。
仕事とプライベートを頑なに分けたエピソードは有名だ。
好きな人でも(家族以外は)深入りをしない。
させない。
私は、仕事とプライベートはごっちゃな人間だが、
彼のそういう部分はとても納得できる。
他人は、たとえどんなにいい人でも、自分とは違う人間。
あわない部分もあるだろう。
長く付き合いたいと思ったら、その合わない部分を上手に避けるのが肝要。
細く長く。
それを分かっているから、距離をとり続けたのだろう。
渥美清の場合は、おそらく役者に徹するために、
わずらわしいことを避けてきたのかもしれない。
これを読んでいる人の中には、
そんなのはイヤだ。そんな人生はさびしい。
短くてもいいから、裸の付き合い、濃厚な付き合いをしたい。
と思う人もいるかも。
それはそれでOK。
全く否定しません。
でも私は、いい関係を長く続ける方が気持ちがいい。
私のことを「冷たい」という人もいる。
きっと、私のそういう性向がそう感じさせるのだろう。
たとえば、新しい知り合いができる。
最初はお互いのこと良く知らないから、いいところばかりが目に入る。
「楽しい人だな」「気が合いそうだな」「いい友達になれそうだな」と思う。
でもそう思って、始終一緒にいるようにしたり、お互いの領域にどんどん入っていったりすると、
ある時点で
「ん?このヒトこういうとこあるんだ」
「なんかちょっと違うな」
とか違和感を覚えたりする。絶対する。
生活習慣の違いだったり、金銭感覚の違いだったり、人との距離のとり方だったり。
で、そこをごまかしながら、上手に付き合おうとすると、くたびれてくる。
変に気を回したり、いいたい事を我慢したり。
ひとつひとつのことは、取るに足らないようなことで、目くじらを立てるほどでもない。
でもそれがいつか蓄積して、負担になってくる。
そして、距離をとりたくなってくる。
そんな状況は、とてもイヤだ。
一時仲の良かった人と、喧嘩別れはもちろんのこと、自然に疎遠になる・・・なんていうのも嫌い。
おそらく、私自身かなり許容範囲が狭くて、わがままな性格なのだと思う。
そんな私でも、やはり人は好きなのだ。
友達と付き合うのも大好き。
だから、自分の心地いい距離で人と付きあう。
自分にとって負担にならないように人とつきあうのが、結局一番お互いのためだと思っているから。
自分だけが楽をしようという気持ちではないよ。
人間関係って、やはりお互いのもだと思うし。
人に気を使わせない人間でいたいと思っている。
そのためには、こっちが気を使わないようにしなくては。
「人に気を使わせないように2倍の気を使う」なんていう芸当は私にはとても無理。
自然体でいなくては、長続きするもんじゃないし。
「あのヒト、私と一緒にいる時、とても楽そう。」
「あの人にはこっちも気を使わなくてすむから、楽でいいのよね」
こういうのが理想です。
残念ながら現実は違うことも多いと思いますが。
ワタシアナタも心地よく。
人生は長い。
経験も積んできたためか、最近はどこまできたら自分が負担を感じるかが、大体分かる。
だから、意識的に「アラーム」がなる手前で抑えている。
私のこういうトコ「冷たい」って思われるのはまだしも、否定されるのはツライ。
こういう人間もいると分かってほしい。
ツライことがあったので、こっそり書いてみました。
ところで、私のリアルの知り合いの方、
「こっちはこんなに気を使ってるのに、アンタはちっとも気を使ってくれない」
と思ってる人がいたら、ゴメンナサイ。
どうか私には気を使わないで。
私もできるだけ、気を使わないようにしてます。
マナーとかは別ですよ。
それは、気を使うのとは別の次元の話。
モチロン、誰でも、結局は「好きなように」生きてるんだろうケド。
それしかできないし。
それがその人の人生だから。
でもそれを、「意識的に」やっていきたい。
基本として、自分が「イヤだな」と思うことはしない。
好きな人とだけ付き合う。
人との付き合い方にも、自分なりのバランスと距離感を持って、主導権(主体性)は手放さない。
仕事をしていると、イヤでもやらなきゃいけないこともある。
そんなに好きじゃない人とも付き合っていかなきゃいけないこともある。
それは仕方ないと思っている。
大きな「やりたいこと」のために必要な、ちいさな「やなこと」はやむを得ない。
それと家族に対しては縁は切れないのだから、多少気持ちに負担があってもそこはガマン。なんていう場面もある。
それは、人間として受け入れなきゃいけないこと。
でもそのほかのことは、「好きなように生きている」という、実感を持って過ごしたい。自分の人生に責任を持つためにも。
私は寅さん映画が好きで、寅さんを演じている渥美清氏にも興味がある。
渥美清という人は、人との距離を厳密に自分に課した人らしい。
仕事とプライベートを頑なに分けたエピソードは有名だ。
好きな人でも(家族以外は)深入りをしない。
させない。
私は、仕事とプライベートはごっちゃな人間だが、
彼のそういう部分はとても納得できる。
他人は、たとえどんなにいい人でも、自分とは違う人間。
あわない部分もあるだろう。
長く付き合いたいと思ったら、その合わない部分を上手に避けるのが肝要。
細く長く。
それを分かっているから、距離をとり続けたのだろう。
渥美清の場合は、おそらく役者に徹するために、
わずらわしいことを避けてきたのかもしれない。
これを読んでいる人の中には、
そんなのはイヤだ。そんな人生はさびしい。
短くてもいいから、裸の付き合い、濃厚な付き合いをしたい。
と思う人もいるかも。
それはそれでOK。
全く否定しません。
でも私は、いい関係を長く続ける方が気持ちがいい。
私のことを「冷たい」という人もいる。
きっと、私のそういう性向がそう感じさせるのだろう。
たとえば、新しい知り合いができる。
最初はお互いのこと良く知らないから、いいところばかりが目に入る。
「楽しい人だな」「気が合いそうだな」「いい友達になれそうだな」と思う。
でもそう思って、始終一緒にいるようにしたり、お互いの領域にどんどん入っていったりすると、
ある時点で
「ん?このヒトこういうとこあるんだ」
「なんかちょっと違うな」
とか違和感を覚えたりする。絶対する。
生活習慣の違いだったり、金銭感覚の違いだったり、人との距離のとり方だったり。
で、そこをごまかしながら、上手に付き合おうとすると、くたびれてくる。
変に気を回したり、いいたい事を我慢したり。
ひとつひとつのことは、取るに足らないようなことで、目くじらを立てるほどでもない。
でもそれがいつか蓄積して、負担になってくる。
そして、距離をとりたくなってくる。
そんな状況は、とてもイヤだ。
一時仲の良かった人と、喧嘩別れはもちろんのこと、自然に疎遠になる・・・なんていうのも嫌い。
おそらく、私自身かなり許容範囲が狭くて、わがままな性格なのだと思う。
そんな私でも、やはり人は好きなのだ。
友達と付き合うのも大好き。
だから、自分の心地いい距離で人と付きあう。
自分にとって負担にならないように人とつきあうのが、結局一番お互いのためだと思っているから。
自分だけが楽をしようという気持ちではないよ。
人間関係って、やはりお互いのもだと思うし。
人に気を使わせない人間でいたいと思っている。
そのためには、こっちが気を使わないようにしなくては。
「人に気を使わせないように2倍の気を使う」なんていう芸当は私にはとても無理。
自然体でいなくては、長続きするもんじゃないし。
「あのヒト、私と一緒にいる時、とても楽そう。」
「あの人にはこっちも気を使わなくてすむから、楽でいいのよね」
こういうのが理想です。
残念ながら現実は違うことも多いと思いますが。
ワタシアナタも心地よく。
人生は長い。
経験も積んできたためか、最近はどこまできたら自分が負担を感じるかが、大体分かる。
だから、意識的に「アラーム」がなる手前で抑えている。
私のこういうトコ「冷たい」って思われるのはまだしも、否定されるのはツライ。
こういう人間もいると分かってほしい。
ツライことがあったので、こっそり書いてみました。
ところで、私のリアルの知り合いの方、
「こっちはこんなに気を使ってるのに、アンタはちっとも気を使ってくれない」
と思ってる人がいたら、ゴメンナサイ。
どうか私には気を使わないで。
私もできるだけ、気を使わないようにしてます。
マナーとかは別ですよ。
それは、気を使うのとは別の次元の話。