昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

なるほど!と思う日々(310)昭和を代表する3人の首相(2)

2014-10-23 02:38:57 | なるほどと思う日々
 さて、昭和の前期を代表する東条英機は、典型的な日本の軍事教育が作り上げた軍人だった。
 しかし、彼の発想、思考の根底には父親、英教の影響が強く沈殿していた。
 
 
 明治の軍人教育は多かれ少なかれ江戸時代からの武士階級、士族というものを軸にしていた。しかし、東條家は南部藩が江戸から招いた能楽師の一族だった。
 東條の父親の英教は維新のときに津軽から東京に出てきて教導団という軍の下級将校を養成するところへ入った。
 そして明治15年にできた陸軍大学校の一期生の9人に選ばれる。
 その一期生の1番で、相当優秀だった。ドイツから教えにきていたメッケルも称賛するほどだった。

 しかし、出世できなかった。長州藩、薩長閥の中で徹底的にいじめられる。
 東條英機はそういう父親の来歴を見ながら育った。
 そして大きな怒りを内在させる。
 一つは徹底的に反長州藩。そして新しくできる陸軍を支配し、教育機関を長州のものからもっと近代的なものに変えるという信念。
 そして、永田鉄山とか岡村寧次、小畑敏四郎といった有能な先輩と一緒に軍の改革をやる。
 昭和に入って彼が偉くなり、統帥権の名のもとに権力の中枢へと入っていった。

「統帥権などと言わずに、軍は政治に従属していなければいけない」
「客観的に情報を分析することで政策を組み立てなければいけない」
「戦争というものを軽々に選んではいけない。なぜなら、国民の命を捨てることになるわけだから」
 昭和10年代の陸軍にはそういう冷静な判断ができる優秀な軍人はかなりいた。
 本間雅晴とか、硫黄島の司令官だった栗林中将とか。
 そういう人たちが要職に就けなかったところに問題があった。
 
 その問題はやはり東條の性格の中に集約されている。
 東條はアメリカについてほとんど知らなかった。
 陸軍大臣に昇進した彼に、「アメリカはそういう国ではない」と忠告、諌言する者はいたが彼は聞かない。
 彼が最もかわいがっていた佐藤賢了がアメリカの駐在武官をやっていたときの経験しか聞かなかった。
 
「アメリカの兵隊なんて、ガムをかじって、夜になればダンス、海軍の兵隊は砲門の上に足を乗っけている。そんな連中が国のために戦うわけがないじゃないですか」
 佐藤はアメリカを徹底的に嫌うタイプだった。

 つまり東條の中に、アメリカという国が正確に頭に入っていなかった。
 これがやはり日本の太平洋戦争を指導した軍人たちの大きな欠陥だった。
 全く思い込みだけで情報が動いている。

 近衛文麿は逆だった。アメリカをよく知っていた。
 
 駐日アメリカ大使のジョセフ・グルーは「近衛のアメリカ観はかなりバランスがとれている」評していた。
 
 その近衛も最後は東條に「そんなに戦争をやりたければ、あんたたちでやれ」と投げ出してしまった。

 アメリカという国を客観的に見る力を持った人たちが1人去り、2人去りした権力構造が、アメリカとの戦争に入っていかせることになったというのが正直な構図だろう。

 ─続く─