万葉雑記 色眼鏡 百六 源氏物語と万葉集を考える
今回は、非常に偏見と狭差な考えに因るもので、悪臭が漂っています。最初にそれを案内し、ご勘弁を願います。
さて、先に『遊仙窟』と云う伝奇小説にテーマを取り、遊びました。その関係で中古時代の漢籍将来とその受容と云うことについて検索を行った影響で少し『源氏物語』と紫式部に寄り道をしました。その寄り道の成果として「下品な万葉集歌を楽しむ」と云うものを弊ブログに載せています。弊ブログでは、寄り道の成果物の一部として「資料編 源氏物語引歌 万葉集部」と云うものを整備し資料として紹介をしています。ブログ記事一つ書くのに対しては実に馬鹿馬鹿しくも暇な話です。
そのような各種、調べ物を行っている時に、少し、気になることがあり、直接の万葉集歌の鑑賞ではありませんが、万葉集歌の鑑賞態度に重要な問題点を含んでいると思えますので、その気になる点を紹介します。
ここで、個人の感覚かもしれませんが『万葉集』や『源氏物語』は、ある種、女性目線での作品とも思えるほど男尊が表には出て来ていません。また、中国書籍では特異ですがこの匂いは『遊仙窟』にもあります。どうも、この男女平等的な扱いが近現代までの文学研究者たちには面白くなかったようです。そして、近現代までの儒教的かつ家長制度下での教育が、主に男子で構成される文学研究者たちの作品鑑賞態度に色眼鏡を掛けたのでないかと思えるのです。
例えば、幕末期の歌人・国学者である萩原広道はその作品である『源氏物語評釈』で次のように評論しているようです。
女は万葉集にはうとく、源氏物語に引く歌で、万葉集の歌として意識して引いたと思われるものはない。原歌は万葉集であっても、実はみな『古今和歌六帖』などに見える歌である。
紫式部が万葉集の歌を引いているのは、みな「古今六帖」などによる。(「源氏物語たより151」より引用)
また、明治から大正時代に新聞ジャーナリズムをリードした宮武骸骨は『売春婦異名集 全』を刊行して、その中で『万葉集』の女流歌人を次のように罵倒しています。
遊女を賤業婦であると卑しむのは後世のことである。だからわたしは、『万葉集』第二巻所載の石川郎女(いしかわのいらつめ)をはじめとして、巨勢郎女(こせのいらつめ)、依羅娘子(いらのいらつめ)、坂上郎女、阿部郎女などはことごとく遊女であると見るのである。
その事実の証明としては、第一の石川郎女のごときは、久米禅師、大津皇子ほか多数のなじみ男があるというのに、さらに押しかけ売春として大伴宿禰田主の家に行き、それをハネられたので、「風流男(みやびを)と吾は聞けるを宿貸さず、吾を帰せり をぞ(愚鈍)の風流男」と詠んで、押し売りに応じない男を馬鹿者と罵っている。これこそ放浪的売春の遊行女婦サブルコ、うかれめでなくて何であろうか、と言いたいのである。
面白いものです。萩原広道は自身が苦労して解読した訓点付万葉集の歌を「平安時代の女が解読できるはずはない。当時、存在していた平仮名表記の『古今和歌六帖』から引用したに違いない」と決めつけています。他方、宮武骸骨に至っては宮中で男女が遊びで和歌を相聞すると云う、古来の歌垣から発展した歌会のようなものへの想像も出来ず、また、万葉集歌本来の鑑賞も出来ない能力不足を、女性を罵倒することで隠しています。まったくもって、酷いものです。ただ、宮武骸骨は当時の新聞ジャーナリストのスターですから、どこかの新聞社のようにセンセーショナルを売り物に部数を売るのを目的として真実はどうでもよかったかもしれません。戦前ですが、宮武骸骨と同じ時代、毎日新聞や朝日新聞は軍部とともに政府を叩きに叩き、戦争へと日本を導くことで大会社へと成長しています。今も昔も戦争とポルノはジャーナリストの原動力です。
そのような時代です。しかしながら、困ったことがあります。萩原広道にしろ、宮武骸骨にしろ、現代の研究からすれば論外の「トンデモ研究」ですが、彼らの時代では大変な権威のする研究として世をリードするようなものとして扱われています。その影響下、近々まで石川女郎は単独の女流歌人であり恋多き女性と云うものを推定する研究者が存在しました。そこには万葉集中の作品間に五十年近い時代の流れとその時代毎に違う複数人の「石川女郎(郎女)」の存在、場合によっては「XX小町」のような美人の代名詞としての名前の借用と云う発想はありませんでした。つまり、そのような研究者は自身の説で宮武骸骨たちの「トンデモ研究」に引きずられた結果、宮武骸骨たちと同様に原文からきちんと『万葉集』を鑑賞出来ていないことを証明しています。
また、万葉集訓点付の研究では藤原道長の時代以前にすでに約四千首の短歌には古点が付けられていた(桂本万葉集の研究)としますから、『白氏文集』などの漢籍が自在であった紫式部・清少納言たちに代表される宮中女房たちにとって訓点万葉集が読解出来ないはずはありません。こうした時、明治期から昭和期までの研究者は、そのような基礎的視野を持っていたかのでしょうか。当然、この点は源氏物語引歌の引用元の推定議論にも大きく影響します。清少納言は『枕草子』で読むべきものの筆頭に『万葉集』、『古今和歌集』、『後撰和歌集』を挙げていますし、『源氏物語』の文中に嵯峨天皇の四巻本古万葉集を取り上げます。ですから、引用元にこの三歌集を筆頭に想定するのが論理的ではないでしょうか。
ここで、冒頭に「資料編 源氏物語引歌 万葉集部」の話題を紹介しましたが、源氏物語引歌を調べますと、萩原広道の主張とは違い『古今和歌六帖』に典拠を取れない万葉集歌は存在します。
<例1>
源氏物語 四帖 夕顔
引歌文 あさけの姿は、げに、人のめできこえんもことわりなる御さまなりけり。
万葉集巻十二 集歌2841
原文 我背子之 朝明形 吉不見 今日間 戀暮鴨
訓読 我が背子し朝明(あさけ)し姿よく見ずて今日し間(あひだ)し恋ひ暮らすかも
読下 わがせこのあさけのすがたよくみずてけふのあひたをこひくらすかも
私訳 私の貴方がまだ薄暗い朝明けの中を帰っていく姿をはっきりと見ないまま、おぼつかなく、今日の一日を恋しく暮らすのでしょうか。
<例2>
源氏物語 第六帖 末摘花
引歌文 故宮おはしましし世を、などてからしと思ひけむ。かく頼みなくても過ぐるものなりけりとて、飛び立ちぬべくふるふもあり。
万葉集巻五 集歌893
原文 世間乎 宇之等夜佐之等 於母倍杼 飛立可祢都 鳥尓之安良祢婆
訓読 世間(よのなか)を憂(う)しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
読下 よのなかをうしとやさしとおもへともとひたちかねつとりにしあらねば
私訳 この世の中を辛いことや気恥ずかしいことばかりと思っていても、この世から飛び去ることが出来ない。私はまだ死者の魂と云う千鳥のような鳥ではないので。
特に第六帖の末摘花でのものは『万葉集』巻五に載る山上憶良が詠う「貧窮問答歌」の短歌からのもので、『古今和歌六帖』を始めとして他にもありません。まず、面倒でも源氏物語引歌を丁寧に調べますと、今日の研究では萩原広道のものは調査深度が浅いと云うことが判ります。または、彼の研究成果は「女では『万葉集』は読めない」と云う色眼鏡を掛けたためではないかと云う疑惑があります。
もう一つ、源氏物語引歌の研究は、読者は『源氏物語』の地文は自在に読めることを前提とし、『源氏物語』は和歌の本歌取の技法と同様に先行する和歌の部分から採用した句を示すことで和歌が詠う世界を文中に取り込み、それにより文章が示す世界により広がりを持たせていることを、引用したであろう元歌を示すことで明らかにします。この背景から『源氏物語』が整備された直後から源氏物語引歌の研究はスタートしていますし、本質における『源氏物語』の鑑賞や研究はこの源氏物語引歌の研究に集約されざるを得ません。
その引歌の技法からしますと、元歌が複数存在したのでは引用して物語の文章に広がりを持たすはずの効果に混乱を生じさせることになります。読者がそれぞれの好みで別々の元歌を任意に選択出来るのでは引用する目的を達成できません。ですから、引歌の技法理論からしますと、以下に紹介する第三四帖の若菜上でのものは『万葉集』からでなくてはならず、類型歌が複数存在する『古今和歌六帖』ではあってはいけないのです。逆に見ますと、原則、先行する和歌集から類聚した秀歌集である『古今和歌六帖』は使えず、本来の原典である『万葉集』、『古今和歌集』、『後撰和歌集』からでなくてはいけません。源氏物語引歌の研究は単なる文字列の一致を調べるものではありません。歌が示す世界を物語に導引していることを示すことであり、その引用したであろう和歌と物語との相乗を検討するものなのです。さて、萩原広道の『源氏物語評釈』に載る解説を参照する人は、それを認識しているでしょうか。
なお、平安時代中期での『万葉集』の訓じは現代に流布するものではなく『古今和歌六帖』に載る万葉集歌の訓じと同等なものが平安時代中期の認識とすべきです。紫式部は現代訓読み万葉集を知らないことを原則とする必要があります。「紫式部は現代訓読み万葉集を知っている」と決め付けたようなトンデモ研究は無しです。
<例3>
源氏物語 第三四帖 若菜上
引歌文 水鳥の青羽は色も変はらぬを萩の下こそけしきことなれなど、書き添へつつすさびたまふ。
万葉集巻八 集歌1543
原文 秋露者 移尓有家里 水鳥乃 青羽乃山能 色付見者
訓読 秋露は移しにありけり水鳥の青羽(あをば)の山の色付く見れば
読下 あきつゆはうつりにありけりみすとりのあをはのやまはいろつくみれは
私訳 秋の露は彩りを移す染める物だなあ。水鳥の青い羽が秋山の彩に染まっていくのを見ると。
六帖 白露はうつしなりけり水鳥の青葉の山の色づくみれば(第二帖-921)
六帖 紅葉する秋は来にけり水鳥の青葉の山の色づくみれば(第三帖-1468)
対して宮武骸骨についてですが、彼の本業は権威指弾と云う建前でのセンセーショナルを売りとした新聞ジャーナリストですから、『万葉集』をきちんと鑑賞出来ていないのは仕方がないかもしれませんし、そのような学問的な要請もありません。テレビに出て来る大学教授との肩書を持つタレントが番組責任者から筋書きに沿って専門外の分野に対し単なる素人の雑談・パロディとしてコメントをさせられているのと同じです。
古典が専門では無い宮武骸骨としては、『売春婦異名集全』と云うセンセーショナルな題名を付けた書籍の販売が最重要な目的です。内容は発禁の可能性のある皇族を除き、古代からの大衆が知る有名女性はすべて売春婦であったと云う大衆受けする結論を事前に設定し、それに向かって論を立てれば良いのです。正誤は関係ありません。本が売れるか、売れないかです。ですから、最初から結論は見えています。場合により、彼は言葉として石川女郎と云うものを知っていた程度かもしれません。どっかの新聞社と同じです。事実を真摯に研究するより、読者の期待に沿ったセンセーショナルな創作が販売では重要です。また、彼らは最後には報道は学問じゃないと開き直れば、真実性は関係ありません。
ただし、宮武骸骨を擁護するのではありませんが、彼の時代、『万葉集』の鑑賞と云う場面において、斎藤茂吉に代表されるように学問として原文を整備し、その原文から訓読みを精査した上で歌を鑑賞するようなことはまだまだの時代です。和歌の歌人として、伝統とされた漢字交じり平仮名表記の万葉集歌を鑑賞し、個人の感想を述べることが研究とされた時代です。つまり、ある種、読書感想の随想が学問とされた時代です。宮武骸骨も斎藤茂吉も随想では同等です。およそ、原文表記での表記方法の相違から時代の新旧推定や漢字交じり平仮名表記された万葉集歌自体のその訓読みの正当性と云う学問的な問題には目が向きづらい状況でした。
最後に個人の一方的な感想ですが、昭和四十年代以前の国文学の資料を参照される場合、その論拠を貴女自身が整備するデータベースから確認・検証されることをお勧めします。また、その場合、板書のさらなる板書のようなものではなく、極力、原文から整備された一次資料的なものを使用することを勧めます。現代はインターネット上から著作権が切れた古典原文は電子データとして容易に入手が可能ですし、貴重な原本も写真データとして公表されています。
さらに、専門家が行ったとする漢文訓読みは信用せず、面倒でも漢語辞典やインターネット検索を通じて漢唐時代の用語例などから丁寧に扱われることを勧めます。斎藤茂吉氏の『万葉秀歌』は有名な書籍ですが、斎藤茂吉氏が『万葉集』に載る漢文をきちんと読解出来たかについては大正期以前の人々と同様に平成以降では否定的に扱われています。『万葉集』巻五は前置漢文を正確に解釈出来ませんと、それが説明する大和歌は鑑賞することは困難です。しかしながら、斎藤氏は、少なくとも「大宰帥大伴卿報凶問歌一首」や「日本挽謌一首」などの前置漢文の理解に対しその難を指摘することは可能です。
背景として、漢語辞典や漢唐時代の用語例を丁寧に調べますと近現代の漢字の解釈と奈良時代での漢字の解釈が違うものがあることに気付くと思います。そうした時、データベース構築や検索技術が今一つであった平成期以前では丁寧な漢語検討は非常に困難であったと推察します。従って、近代の忙しい国文学研究者は、勢い、旧来の解釈をそのまま引用することになったと考えます。およそ、板書のさらなる板書のようなもの形です。
今回もまた、ブログアップへのノルマ稼ぎとテーマに対する時間稼ぎのようなものになりました。反省する次第です。
今回は、非常に偏見と狭差な考えに因るもので、悪臭が漂っています。最初にそれを案内し、ご勘弁を願います。
さて、先に『遊仙窟』と云う伝奇小説にテーマを取り、遊びました。その関係で中古時代の漢籍将来とその受容と云うことについて検索を行った影響で少し『源氏物語』と紫式部に寄り道をしました。その寄り道の成果として「下品な万葉集歌を楽しむ」と云うものを弊ブログに載せています。弊ブログでは、寄り道の成果物の一部として「資料編 源氏物語引歌 万葉集部」と云うものを整備し資料として紹介をしています。ブログ記事一つ書くのに対しては実に馬鹿馬鹿しくも暇な話です。
そのような各種、調べ物を行っている時に、少し、気になることがあり、直接の万葉集歌の鑑賞ではありませんが、万葉集歌の鑑賞態度に重要な問題点を含んでいると思えますので、その気になる点を紹介します。
ここで、個人の感覚かもしれませんが『万葉集』や『源氏物語』は、ある種、女性目線での作品とも思えるほど男尊が表には出て来ていません。また、中国書籍では特異ですがこの匂いは『遊仙窟』にもあります。どうも、この男女平等的な扱いが近現代までの文学研究者たちには面白くなかったようです。そして、近現代までの儒教的かつ家長制度下での教育が、主に男子で構成される文学研究者たちの作品鑑賞態度に色眼鏡を掛けたのでないかと思えるのです。
例えば、幕末期の歌人・国学者である萩原広道はその作品である『源氏物語評釈』で次のように評論しているようです。
女は万葉集にはうとく、源氏物語に引く歌で、万葉集の歌として意識して引いたと思われるものはない。原歌は万葉集であっても、実はみな『古今和歌六帖』などに見える歌である。
紫式部が万葉集の歌を引いているのは、みな「古今六帖」などによる。(「源氏物語たより151」より引用)
また、明治から大正時代に新聞ジャーナリズムをリードした宮武骸骨は『売春婦異名集 全』を刊行して、その中で『万葉集』の女流歌人を次のように罵倒しています。
遊女を賤業婦であると卑しむのは後世のことである。だからわたしは、『万葉集』第二巻所載の石川郎女(いしかわのいらつめ)をはじめとして、巨勢郎女(こせのいらつめ)、依羅娘子(いらのいらつめ)、坂上郎女、阿部郎女などはことごとく遊女であると見るのである。
その事実の証明としては、第一の石川郎女のごときは、久米禅師、大津皇子ほか多数のなじみ男があるというのに、さらに押しかけ売春として大伴宿禰田主の家に行き、それをハネられたので、「風流男(みやびを)と吾は聞けるを宿貸さず、吾を帰せり をぞ(愚鈍)の風流男」と詠んで、押し売りに応じない男を馬鹿者と罵っている。これこそ放浪的売春の遊行女婦サブルコ、うかれめでなくて何であろうか、と言いたいのである。
面白いものです。萩原広道は自身が苦労して解読した訓点付万葉集の歌を「平安時代の女が解読できるはずはない。当時、存在していた平仮名表記の『古今和歌六帖』から引用したに違いない」と決めつけています。他方、宮武骸骨に至っては宮中で男女が遊びで和歌を相聞すると云う、古来の歌垣から発展した歌会のようなものへの想像も出来ず、また、万葉集歌本来の鑑賞も出来ない能力不足を、女性を罵倒することで隠しています。まったくもって、酷いものです。ただ、宮武骸骨は当時の新聞ジャーナリストのスターですから、どこかの新聞社のようにセンセーショナルを売り物に部数を売るのを目的として真実はどうでもよかったかもしれません。戦前ですが、宮武骸骨と同じ時代、毎日新聞や朝日新聞は軍部とともに政府を叩きに叩き、戦争へと日本を導くことで大会社へと成長しています。今も昔も戦争とポルノはジャーナリストの原動力です。
そのような時代です。しかしながら、困ったことがあります。萩原広道にしろ、宮武骸骨にしろ、現代の研究からすれば論外の「トンデモ研究」ですが、彼らの時代では大変な権威のする研究として世をリードするようなものとして扱われています。その影響下、近々まで石川女郎は単独の女流歌人であり恋多き女性と云うものを推定する研究者が存在しました。そこには万葉集中の作品間に五十年近い時代の流れとその時代毎に違う複数人の「石川女郎(郎女)」の存在、場合によっては「XX小町」のような美人の代名詞としての名前の借用と云う発想はありませんでした。つまり、そのような研究者は自身の説で宮武骸骨たちの「トンデモ研究」に引きずられた結果、宮武骸骨たちと同様に原文からきちんと『万葉集』を鑑賞出来ていないことを証明しています。
また、万葉集訓点付の研究では藤原道長の時代以前にすでに約四千首の短歌には古点が付けられていた(桂本万葉集の研究)としますから、『白氏文集』などの漢籍が自在であった紫式部・清少納言たちに代表される宮中女房たちにとって訓点万葉集が読解出来ないはずはありません。こうした時、明治期から昭和期までの研究者は、そのような基礎的視野を持っていたかのでしょうか。当然、この点は源氏物語引歌の引用元の推定議論にも大きく影響します。清少納言は『枕草子』で読むべきものの筆頭に『万葉集』、『古今和歌集』、『後撰和歌集』を挙げていますし、『源氏物語』の文中に嵯峨天皇の四巻本古万葉集を取り上げます。ですから、引用元にこの三歌集を筆頭に想定するのが論理的ではないでしょうか。
ここで、冒頭に「資料編 源氏物語引歌 万葉集部」の話題を紹介しましたが、源氏物語引歌を調べますと、萩原広道の主張とは違い『古今和歌六帖』に典拠を取れない万葉集歌は存在します。
<例1>
源氏物語 四帖 夕顔
引歌文 あさけの姿は、げに、人のめできこえんもことわりなる御さまなりけり。
万葉集巻十二 集歌2841
原文 我背子之 朝明形 吉不見 今日間 戀暮鴨
訓読 我が背子し朝明(あさけ)し姿よく見ずて今日し間(あひだ)し恋ひ暮らすかも
読下 わがせこのあさけのすがたよくみずてけふのあひたをこひくらすかも
私訳 私の貴方がまだ薄暗い朝明けの中を帰っていく姿をはっきりと見ないまま、おぼつかなく、今日の一日を恋しく暮らすのでしょうか。
<例2>
源氏物語 第六帖 末摘花
引歌文 故宮おはしましし世を、などてからしと思ひけむ。かく頼みなくても過ぐるものなりけりとて、飛び立ちぬべくふるふもあり。
万葉集巻五 集歌893
原文 世間乎 宇之等夜佐之等 於母倍杼 飛立可祢都 鳥尓之安良祢婆
訓読 世間(よのなか)を憂(う)しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
読下 よのなかをうしとやさしとおもへともとひたちかねつとりにしあらねば
私訳 この世の中を辛いことや気恥ずかしいことばかりと思っていても、この世から飛び去ることが出来ない。私はまだ死者の魂と云う千鳥のような鳥ではないので。
特に第六帖の末摘花でのものは『万葉集』巻五に載る山上憶良が詠う「貧窮問答歌」の短歌からのもので、『古今和歌六帖』を始めとして他にもありません。まず、面倒でも源氏物語引歌を丁寧に調べますと、今日の研究では萩原広道のものは調査深度が浅いと云うことが判ります。または、彼の研究成果は「女では『万葉集』は読めない」と云う色眼鏡を掛けたためではないかと云う疑惑があります。
もう一つ、源氏物語引歌の研究は、読者は『源氏物語』の地文は自在に読めることを前提とし、『源氏物語』は和歌の本歌取の技法と同様に先行する和歌の部分から採用した句を示すことで和歌が詠う世界を文中に取り込み、それにより文章が示す世界により広がりを持たせていることを、引用したであろう元歌を示すことで明らかにします。この背景から『源氏物語』が整備された直後から源氏物語引歌の研究はスタートしていますし、本質における『源氏物語』の鑑賞や研究はこの源氏物語引歌の研究に集約されざるを得ません。
その引歌の技法からしますと、元歌が複数存在したのでは引用して物語の文章に広がりを持たすはずの効果に混乱を生じさせることになります。読者がそれぞれの好みで別々の元歌を任意に選択出来るのでは引用する目的を達成できません。ですから、引歌の技法理論からしますと、以下に紹介する第三四帖の若菜上でのものは『万葉集』からでなくてはならず、類型歌が複数存在する『古今和歌六帖』ではあってはいけないのです。逆に見ますと、原則、先行する和歌集から類聚した秀歌集である『古今和歌六帖』は使えず、本来の原典である『万葉集』、『古今和歌集』、『後撰和歌集』からでなくてはいけません。源氏物語引歌の研究は単なる文字列の一致を調べるものではありません。歌が示す世界を物語に導引していることを示すことであり、その引用したであろう和歌と物語との相乗を検討するものなのです。さて、萩原広道の『源氏物語評釈』に載る解説を参照する人は、それを認識しているでしょうか。
なお、平安時代中期での『万葉集』の訓じは現代に流布するものではなく『古今和歌六帖』に載る万葉集歌の訓じと同等なものが平安時代中期の認識とすべきです。紫式部は現代訓読み万葉集を知らないことを原則とする必要があります。「紫式部は現代訓読み万葉集を知っている」と決め付けたようなトンデモ研究は無しです。
<例3>
源氏物語 第三四帖 若菜上
引歌文 水鳥の青羽は色も変はらぬを萩の下こそけしきことなれなど、書き添へつつすさびたまふ。
万葉集巻八 集歌1543
原文 秋露者 移尓有家里 水鳥乃 青羽乃山能 色付見者
訓読 秋露は移しにありけり水鳥の青羽(あをば)の山の色付く見れば
読下 あきつゆはうつりにありけりみすとりのあをはのやまはいろつくみれは
私訳 秋の露は彩りを移す染める物だなあ。水鳥の青い羽が秋山の彩に染まっていくのを見ると。
六帖 白露はうつしなりけり水鳥の青葉の山の色づくみれば(第二帖-921)
六帖 紅葉する秋は来にけり水鳥の青葉の山の色づくみれば(第三帖-1468)
対して宮武骸骨についてですが、彼の本業は権威指弾と云う建前でのセンセーショナルを売りとした新聞ジャーナリストですから、『万葉集』をきちんと鑑賞出来ていないのは仕方がないかもしれませんし、そのような学問的な要請もありません。テレビに出て来る大学教授との肩書を持つタレントが番組責任者から筋書きに沿って専門外の分野に対し単なる素人の雑談・パロディとしてコメントをさせられているのと同じです。
古典が専門では無い宮武骸骨としては、『売春婦異名集全』と云うセンセーショナルな題名を付けた書籍の販売が最重要な目的です。内容は発禁の可能性のある皇族を除き、古代からの大衆が知る有名女性はすべて売春婦であったと云う大衆受けする結論を事前に設定し、それに向かって論を立てれば良いのです。正誤は関係ありません。本が売れるか、売れないかです。ですから、最初から結論は見えています。場合により、彼は言葉として石川女郎と云うものを知っていた程度かもしれません。どっかの新聞社と同じです。事実を真摯に研究するより、読者の期待に沿ったセンセーショナルな創作が販売では重要です。また、彼らは最後には報道は学問じゃないと開き直れば、真実性は関係ありません。
ただし、宮武骸骨を擁護するのではありませんが、彼の時代、『万葉集』の鑑賞と云う場面において、斎藤茂吉に代表されるように学問として原文を整備し、その原文から訓読みを精査した上で歌を鑑賞するようなことはまだまだの時代です。和歌の歌人として、伝統とされた漢字交じり平仮名表記の万葉集歌を鑑賞し、個人の感想を述べることが研究とされた時代です。つまり、ある種、読書感想の随想が学問とされた時代です。宮武骸骨も斎藤茂吉も随想では同等です。およそ、原文表記での表記方法の相違から時代の新旧推定や漢字交じり平仮名表記された万葉集歌自体のその訓読みの正当性と云う学問的な問題には目が向きづらい状況でした。
最後に個人の一方的な感想ですが、昭和四十年代以前の国文学の資料を参照される場合、その論拠を貴女自身が整備するデータベースから確認・検証されることをお勧めします。また、その場合、板書のさらなる板書のようなものではなく、極力、原文から整備された一次資料的なものを使用することを勧めます。現代はインターネット上から著作権が切れた古典原文は電子データとして容易に入手が可能ですし、貴重な原本も写真データとして公表されています。
さらに、専門家が行ったとする漢文訓読みは信用せず、面倒でも漢語辞典やインターネット検索を通じて漢唐時代の用語例などから丁寧に扱われることを勧めます。斎藤茂吉氏の『万葉秀歌』は有名な書籍ですが、斎藤茂吉氏が『万葉集』に載る漢文をきちんと読解出来たかについては大正期以前の人々と同様に平成以降では否定的に扱われています。『万葉集』巻五は前置漢文を正確に解釈出来ませんと、それが説明する大和歌は鑑賞することは困難です。しかしながら、斎藤氏は、少なくとも「大宰帥大伴卿報凶問歌一首」や「日本挽謌一首」などの前置漢文の理解に対しその難を指摘することは可能です。
背景として、漢語辞典や漢唐時代の用語例を丁寧に調べますと近現代の漢字の解釈と奈良時代での漢字の解釈が違うものがあることに気付くと思います。そうした時、データベース構築や検索技術が今一つであった平成期以前では丁寧な漢語検討は非常に困難であったと推察します。従って、近代の忙しい国文学研究者は、勢い、旧来の解釈をそのまま引用することになったと考えます。およそ、板書のさらなる板書のようなもの形です。
今回もまた、ブログアップへのノルマ稼ぎとテーマに対する時間稼ぎのようなものになりました。反省する次第です。
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